科学の前提

 涼しい日も増えてきました。
 秋ですね。
 なんか読書でもしたくなってきた、そんな気分。

 以前、↓こんなことを聞かれていた。
カテ違いで申し訳ありませんが、見つけたコメント、どのように思われますか。
① 『物質(原子)は誰が作ったのか』

 物質(原子)は百余り有りますが、陽子・中性子・電子の3者での構成しか存在せず、生成過程で発生するはずの「多様性」が無いのは不自然です。

 原子は規則性や法則性に支配されますが、自然や偶然で規則性や法則性まで作れるものでしょうか。

 中性子は中性子線を内包し、特定の物質(原子)は放射線を放射しますが、自然や偶然で放射線を作れますか、膨大なエネルギーを内包できますか。

② 『遺伝子DNAは誰が作ったのか』

 全ての生命に遺伝子DNAが組み込まれていますが、肉眼で見えない微細なものが1mとか2mとかの長さがあり、4種の塩基配列は複雑精巧なもので、自己修復機能まで有します。

 こんなものが自然や偶然に出来るものでしょうか。

③ 宇宙の始まりが無機であったとしても、進化の途上で有機(生命)が生まれ、さらに彼らが多様な進化を遂げたうえに、「未詳の存在」が人間や様々なものを作り出した可能性は否定されるものでしょうか。

④ 『今の世界は虚構であり、私たちは人工的に作られた肉体を使って、人工的に作られた「場」で生活をしているのであり、本当の自分は「遠い未来」(真実の世界)にいます。』という発想は成り立つでしょうか。

 (平行宇宙だとか重畳宇宙だとか「メビウスの輪」だとかの難しい解釈ではなく、もっとシンプルで単純な答えが見つからないものでしょうか)。


 これは、この書き込みをした「どう思われますか」さんの意見ではなく、第三者の考えを私に丸投げした形ですね。
 アル中でわけわかんなくなっているのに「めんどくせーな」と思って、分かりにくいレスをしましたが。
 もっと分かりにくい答えをするなら。
 釈迦は弟子に「宇宙はどうなっているのか」と問われ、「宇宙は自分の中にある」みたいに答えたと、何かで読んだ記憶が。
 カントの「モノ自体は知りえない」という考えですね。

 科学はモノ自体を解明しているわけではありません。
 観察したモノを「人間の思考形式」で解釈しているだけです。
 科学的に「真理」と言われているものでも、ただの人間的な解釈にすぎない以上、すべては仮説です。

 ①~④の質問者は、科学はモノ自体を解明していると考えていて、そのモノ自体が人間の思考形式に合致していることに驚いているように見えます。

 これを、もっとわかりやすく説明しているサイトがあった。
 ↓『webちくま』はじめての哲学的思考 第3回 科学とは何がちがうの?(苫野一徳)
 僕たちの多くは、ふだん、世界は科学的な法則に支配されていると思い込んでいる。天体法則とか人体のメカニズムとか、脳の働きとかDNAの仕組みとか、そういった“事実”こそが先にあるのであって、“意味”は、そうした事実に人間があとからくっつけたものだと考えている。
 でも、事態はまるっきり逆なのだ。
 というのも、いわゆる“事実”は、僕たちの「意味の世界」のアンテナにひっかからないかぎり、決して“事実”として認識されることがないからだ。
 たとえば、天体法則という“事実”が存在するのは、僕たちがこの法則に“意味”を見出しているからだ。
(中略)
 いやいや、それはそうかもしれないけど……と、まだ腑に落ちない方も多いだろう。
 たしかに、“事実”は僕たちの“意味”のアンテナにとらえられないかぎり、僕たちにとって存在しないのかもしれない。でも、たとえそうだったとしても、天体法則はやっぱり客観的に存在するし、DNAは太古の昔から二重らせん構造をなしていたんじゃないの? つまり、科学的な事実は、人間がいようがいまいが、やっぱり客観的な事実と言えるんじゃないの?
 ――そう思う人もいるだろう。
 でもそれは本当だろうか?
 極端な話をすれば、もしも人類よりはるかに知能が進んだ宇宙人がいたとしたら、彼らの住む「事実の世界」は、僕たちの世界とは大きく異なっているだろう。三次元や四次元どころか、彼らは二十次元くらいの世界に生きているかもしれない。その世界では、DNAは二重らせん構造をなしていないかもしれないし、時間だって存在していないかもしれない。
 いや、そんなとっぴな例を持ち出さなくても、もっと身近な、たとえば犬やネコやカラスなんかを考えてみてもいい。
 犬やネコは、人間のようには色が認識できないと言われている。一方カラスは、人間には認識できない紫外線を認識できるという。だから、どうやらお互いを黒色とは認識していないらしい。
 要するに、犬やネコやカラスは、僕たちにとっての「事実の世界」と、いくらか異なった世界を生きているのだ。
 それはつまり、僕たちもまた、「僕たちにとっての事実の世界」をしか生きられないということだ。
(中略)
 僕たちは、僕たちの「意味の世界」に照らし出されたかぎりにおいてしか、「事実の世界」を知ることはできないのだ。
 無色透明な「事実の世界」(客観的な真理)なんて、僕たちは決して知りえない。それはいつも、僕たちの「意味の世界」の色を帯びているのだ。
 これが、「意味の世界」は「事実の世界」に原理的に先立つということの意味だ。


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