FC2ブログ

Guild of Heroes/アップデート

 アップデートされていた。
 次のステージが追加されたぐらいかな、と思っていたら。

 アビリティが追加された。
 ステージの難易度も増えた。
 そして、装備を進化できるようになった。
 「北方のアイスブランド」のほうが「ウォーロードのツヴァイハンダー」よりも強い武器だったが。
 私の持っている「北方のアイスブランド」は★2。
 で、私の持っている「ウォーロードのツヴァイハンダー」は★3まで進化できるみたいで、★3まで進化させたら「北方のアイスブランド」★2よりも強くなる、みたいなことだと思う。
 うわぁ、めんどくせ。
 今まででもエグイぐらいのやり込み要素だと思っていたのだが。

 もう、そこそこ飽きてきている。

↓クリックお願いします。
人気ブログランキングへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へblogram投票ボタン
スポンサーサイト

思考実験/臓器くじ

 ↓『頭の中は最強の実験室』P19 「臓器くじ」
 ある社会では次のような制度がある。社会全体の健全な肉体をもつ者のなかからくじ引きで1人に死んでもらい、その臓器を切り取って、別々の致命的な病気をもった5人に移植して5人の命を助けるというものである。あなたは、この制度についてどう思うか?

 消極的殺人で5人を見殺しにするのか、積極的殺人で1人を殺して5人を救うのか、という問題。

 臓器移植が必要な人を死なせることを消極的殺人とするのが、この問題の詭弁。
 病気の5人を見殺しにするのは殺人ではない。
 健康な肉体を持つ者から臓器を取る殺人は許されない。

 しかし、これが「羊飼い」の話なら。
 1匹の健康な羊から臓器を取って、5匹の羊を生かすほうが利益が多いだろう。

 功利主義は羊飼いの話では通用するが、それを人間社会に持ち込まれても困る。

 ただし、これがもしも戦争中の軍隊だったら。
 A国は1人を生かすために5人を見殺しにする。
 B国は5人を生かすために、1人を殺す。
 A国の兵士は1人。B国の兵士は5人。
 A国で生かされた1人の兵士も、B国の兵士5人に殺され、戦争はB国が勝利する。
 軍隊においては、功利主義で考えたほうがいいだろう。

 また、戦争中の一般社会においても。
 総力戦で、どれだけ多くの物資を作れるかという状況なら、人的資源を多く確保したほうが勝利する。

 だから、戦争が身近にある世界であれば、功利主義が採用されるだろう。
 しかしそれは、国を存続させるものではあっても、人間社会においては不適応であるから、批判を受けることになる。

 ↓『頭の中は最強の実験室』P21 「野戦病院での薬の配分」
 ここに1人の患者Aと、A以外の5人の患者がいる。全員激痛に苦しんでいる。患者Aは将官で、Aのもとには後方基地より鎮痛剤が送られてきた。その鎮痛剤をAに投与すれば1日中彼は苦しまないですむ。しかし、同室の5人の患者は、患者Aとは体質が異なり、1/5の量で1日中苦しまないですむ。
 あなたは医師である。Aの薬を取り上げて、5人の患者に投与するか、本部の命令を順守するか、どちらだろうか?


 軍医であるなら羊の一匹にすぎないのだから、羊飼いである本部の命令を順守するべきである。
 しかし、自分がたまたま通りかかったフリーな医者で、たまたま鎮痛剤を持っていたという設定なら、5人に投与する。より多くを救えるほうに使うだろう。

 まとめ。
 功利主義は羊飼い(人間飼い)の理屈。
 人間社会で功利主義はナンセンス。
 しかし、戦争中であれば、社会は功利主義的になるだろう。倫理よりも功利が優先される。
 功利主義が生まれた、ベンサムが生きた時代がそうだったのだろう。

↓クリックお願いします。
人気ブログランキングへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へblogram投票ボタン

思考実験/トロッコ問題

 アルコールでニブった頭のリハビリで、思考実験でもしてみよう。
 昔、『頭の中は最強の実験室』(榛葉豊・化学同人)という本を買ったけど、ぜんぜん読んでいなくて。
 だって最初が、船が難破して救命ボートで脱出。でも食料がなくなって衰弱した人を殺して食べた、という「ミニョネット号事件」の話。
 いきなり読む気が失せて、それっきり。

 まぁ、それは飛ばして、本題の「トロッコ問題」。
 ハーバード大のマイケル・サンデルによって有名になった問題。

 ↓ウィキペディア「トロッコ問題」
まず前提として、以下のようなトラブル (a) が発生したものとする。
(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。

そしてA氏が以下の状況に置かれているものとする。
(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?

なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。また法的な責任は問われず、道徳的な見解だけが問題にされている。あなたは道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。
つまり単純に「5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか」という問題である。功利主義に基づくなら一人を犠牲にして五人を助けるべきである。しかし義務論に従えば、誰かを他の目的のために利用すべきではなく、何もするべきではない。


 ウィキペディアでは、自分は全く関係がない人という設定だが、『頭の中は最強の実験室』では、自分はポイントの切り替え係となっている。自分はこの事故の関係者。
 マイケル・サンデルの『白熱教室』では、トロッコではなく路面電車の運転手という設定で、『頭の中は最強の実験室』と同じような設定。

 『白熱教室』の設定で、自分の運転で線路を選ばなければならない場合、これは1人のほうを犠牲にします。
 どちらかを選択する義務があるのであれば(自分の罪が避けられないのであれば)、より軽い罪のほうを選択します。

 このトロッコ問題にはバリエーションがあって。
 ↓ウィキペディア「トロッコ問題」
では次のような派生問題ではどうだろうか。A氏はやはり(a)の状態にあるが、(1)ではなく次の(2)の状況に置かれている。
(2) A氏は線路の上にある橋に立っており、A氏の横にC氏がいる。C氏はかなり体重があり、もし彼を線路上につき落として障害物にすればトロッコは確実に止まり5人は助かる。だがそうするとC氏がトロッコに轢かれて死ぬのも確実である。C氏は状況に気づいておらず自らは何も行動しないが、A氏に対し警戒もしていないので突き落とすのに失敗するおそれは無い。C氏をつき落とすべきか?

前述の問題と同様、A氏にはつき落とすかつき落とさないかの選択肢以外は無いものとする。C氏ほど体重の無いA氏が自ら飛び降りてもトロッコを止められず、またその事実をA氏は理解している。


 C氏を突き落したら、私が1人を殺したことになる。殺人事件。
 C氏を突き落さない場合、5人が死ぬことになる事故だけど、その責任は鉄道会社になる。
 私はC氏を突き落したりしない。
 社会や法が、私に殺人者になることを要求することはないだろう。

 ↓『頭の中は最強の実験室』P16
 「人間の快楽や幸福は計量化でき、他人の快楽や幸福と比較・換算ができる。そして社会全体の幸福の総和を最大化するような選択をすべきだ」と考えるのが、イギリスの法哲学者ジェレミ・ベンサム(1748~1832)に始まる功利主義です。「最大多数の最大幸福」をめざします。

 どちらの問題でも、常に1人を犠牲にして5人を生かすのが功利主義というものらしい。

 多くの人は、最初の問題では1人を犠牲にするが、次の問題ではそうはしない。5人を見殺しにする。
 功利主義に反した判断をするのが不思議だね、というのがトロッコ問題。
 「不思議だね」と言うよりも、功利主義は現実的ではない、と言うべきだろう。

 最初の問題は、自分が1人を殺すか、5人を殺すか、という問題で、多くの人が1人と答えるのは納得できる。罪が軽いほうを選択する。
 次の問題は、殺人を行うかどうかの問題で、多くの人が殺人をしないと選択するのも当然だろう。これも罪が軽いほう、と言うか、罪にならないほうを選択した。

 ウィキペディアのように、最初の問題も自分に無関係な事故であるなら、多くの人は殺人をしない、という選択をするだろう。
 しかし、それだと最初の問題と次の問題に違いはないので(殺害方法だけの違い)、ウィキペディアの記述が間違っているのではないかと思う。

 さて、功利主義とは、どのような発想なんだろうか?
 たとえば自分が羊飼いだったとして。
 線路に羊が逃げ出してしまった。
 ポイントを切り替えて1匹を犠牲にするか、5匹を犠牲にするか?という問題だったら、当然、1匹を犠牲にするだろう。
 5匹の羊を救うために、1匹の羊を突き落すのにもためらいはない。
 こういうケースなら功利主義で考えられるだろう。

 しかしこれが人間であった場合。
 私は「人間飼い」ではないので、そのような選択はしない。

 ベンサムは、「人間飼い」として、上から目線で考えていたのではないかと思う。

↓クリックお願いします。
人気ブログランキングへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へblogram投票ボタン

科学の前提

 涼しい日も増えてきました。
 秋ですね。
 なんか読書でもしたくなってきた、そんな気分。

 以前、↓こんなことを聞かれていた。
カテ違いで申し訳ありませんが、見つけたコメント、どのように思われますか。
① 『物質(原子)は誰が作ったのか』

 物質(原子)は百余り有りますが、陽子・中性子・電子の3者での構成しか存在せず、生成過程で発生するはずの「多様性」が無いのは不自然です。

 原子は規則性や法則性に支配されますが、自然や偶然で規則性や法則性まで作れるものでしょうか。

 中性子は中性子線を内包し、特定の物質(原子)は放射線を放射しますが、自然や偶然で放射線を作れますか、膨大なエネルギーを内包できますか。

② 『遺伝子DNAは誰が作ったのか』

 全ての生命に遺伝子DNAが組み込まれていますが、肉眼で見えない微細なものが1mとか2mとかの長さがあり、4種の塩基配列は複雑精巧なもので、自己修復機能まで有します。

 こんなものが自然や偶然に出来るものでしょうか。

③ 宇宙の始まりが無機であったとしても、進化の途上で有機(生命)が生まれ、さらに彼らが多様な進化を遂げたうえに、「未詳の存在」が人間や様々なものを作り出した可能性は否定されるものでしょうか。

④ 『今の世界は虚構であり、私たちは人工的に作られた肉体を使って、人工的に作られた「場」で生活をしているのであり、本当の自分は「遠い未来」(真実の世界)にいます。』という発想は成り立つでしょうか。

 (平行宇宙だとか重畳宇宙だとか「メビウスの輪」だとかの難しい解釈ではなく、もっとシンプルで単純な答えが見つからないものでしょうか)。


 これは、この書き込みをした「どう思われますか」さんの意見ではなく、第三者の考えを私に丸投げした形ですね。
 アル中でわけわかんなくなっているのに「めんどくせーな」と思って、分かりにくいレスをしましたが。
 もっと分かりにくい答えをするなら。
 釈迦は弟子に「宇宙はどうなっているのか」と問われ、「宇宙は自分の中にある」みたいに答えたと、何かで読んだ記憶が。
 カントの「モノ自体は知りえない」という考えですね。

 科学はモノ自体を解明しているわけではありません。
 観察したモノを「人間の思考形式」で解釈しているだけです。
 科学的に「真理」と言われているものでも、ただの人間的な解釈にすぎない以上、すべては仮説です。

 ①~④の質問者は、科学はモノ自体を解明していると考えていて、そのモノ自体が人間の思考形式に合致していることに驚いているように見えます。

 これを、もっとわかりやすく説明しているサイトがあった。
 ↓『webちくま』はじめての哲学的思考 第3回 科学とは何がちがうの?(苫野一徳)
 僕たちの多くは、ふだん、世界は科学的な法則に支配されていると思い込んでいる。天体法則とか人体のメカニズムとか、脳の働きとかDNAの仕組みとか、そういった“事実”こそが先にあるのであって、“意味”は、そうした事実に人間があとからくっつけたものだと考えている。
 でも、事態はまるっきり逆なのだ。
 というのも、いわゆる“事実”は、僕たちの「意味の世界」のアンテナにひっかからないかぎり、決して“事実”として認識されることがないからだ。
 たとえば、天体法則という“事実”が存在するのは、僕たちがこの法則に“意味”を見出しているからだ。
(中略)
 いやいや、それはそうかもしれないけど……と、まだ腑に落ちない方も多いだろう。
 たしかに、“事実”は僕たちの“意味”のアンテナにとらえられないかぎり、僕たちにとって存在しないのかもしれない。でも、たとえそうだったとしても、天体法則はやっぱり客観的に存在するし、DNAは太古の昔から二重らせん構造をなしていたんじゃないの? つまり、科学的な事実は、人間がいようがいまいが、やっぱり客観的な事実と言えるんじゃないの?
 ――そう思う人もいるだろう。
 でもそれは本当だろうか?
 極端な話をすれば、もしも人類よりはるかに知能が進んだ宇宙人がいたとしたら、彼らの住む「事実の世界」は、僕たちの世界とは大きく異なっているだろう。三次元や四次元どころか、彼らは二十次元くらいの世界に生きているかもしれない。その世界では、DNAは二重らせん構造をなしていないかもしれないし、時間だって存在していないかもしれない。
 いや、そんなとっぴな例を持ち出さなくても、もっと身近な、たとえば犬やネコやカラスなんかを考えてみてもいい。
 犬やネコは、人間のようには色が認識できないと言われている。一方カラスは、人間には認識できない紫外線を認識できるという。だから、どうやらお互いを黒色とは認識していないらしい。
 要するに、犬やネコやカラスは、僕たちにとっての「事実の世界」と、いくらか異なった世界を生きているのだ。
 それはつまり、僕たちもまた、「僕たちにとっての事実の世界」をしか生きられないということだ。
(中略)
 僕たちは、僕たちの「意味の世界」に照らし出されたかぎりにおいてしか、「事実の世界」を知ることはできないのだ。
 無色透明な「事実の世界」(客観的な真理)なんて、僕たちは決して知りえない。それはいつも、僕たちの「意味の世界」の色を帯びているのだ。
 これが、「意味の世界」は「事実の世界」に原理的に先立つということの意味だ。


↓クリックお願いします。
人気ブログランキングへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へblogram投票ボタン