悲しみについて



 たとえば誰かが亡くなったとき、人は悲しむでしょう。
 誰かが亡くなったという事実を知覚すると、悲しみの感情が湧き上がってきて、それを表現しようとする。
 しかし、その表現・行動を一旦停止して、「悲しみ」それ自体に意識を向ける。

 また、恋人に「他に好きな人ができた」と言われたときも、悲しみが湧き上がってくる。
 このときの悲しみも、悲しみが引き起こされた事態が違うだけで、「悲しみ」それ自体は、誰かが亡くなったときのと同じもの。
 両者の「悲しみ」それ自体は同じもの。

 「還元」とは酸化鉄から鉄を取り出すことであるように、「現象学的還元」とは悲しみに付随するものを取り除き、「悲しみ」それ自体、つまり本質を取り出す手法であると思う。
 現象学的還元を用いて本質を考えることを本質直観と言うのだと思う。

 で、「悲しみ」それ自体(悲しみの本質)とは何か?
 スピノザが『エチカ』で言うように、「悲しみとは自己が小さくなること」だと思う。
 誰かを亡くした人も、恋人にフラれた人も、「自己」が小さくなったことで悲しみが引き起こされる。
 この「自己が小さくなる」というのも分かりにくいが、たとえば何かを失敗したときに「凹む」と言うように、凹んだ状態が「悲しみ」であり、凹んだものが「自己」。

 スピノザが「悲しみとは自己が小さくなること」と言う、それが「本質直観」。ソクラテスが議論していた「定義」。
 そしてスピノザは内省によって悲しみを定義したと思うが、その内省に呼び名をつけるとすれば「現象学的還元」。

 と、こうなるともうフッサールから離れて換骨奪胎になっていると思うが。

↓クリックお願いします。
人気ブログランキングへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へblogram投票ボタン
スポンサーサイト

我思う、ゆえに我あり2

 デカルトがその著作で主張していることは、精神と肉体は別である、ということ。
 それを理解するための最初の一歩が「我思う、ゆえに我あり」。
 「肉体があるから私がある」を否定するもの。

『方法序説』(岩波文庫)P8
 良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。というのも、だれも良識なら十分身に具わっていると思っているので、他のことでは何でも気難しい人たちでさえ、良識については、自分がいま持っている以上を望まないのが普通だからだ。この点でみんなが思い違いをしているとは思えない。むしろそれが立証しているのは、正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識とか理性と呼ばれているものだが、そういう能力がすべての人に生まれつき平等に備わっていることだ。


 デカルトやソクラテスは「精神と肉体は別である」と主張し、私たちは「肉体があるから精神がある」と考える。
 さて、異なる意見があるとき、ふつう、どちらかが正しく、どちらかが間違っている、と考える。
 しかし、すべての人の分別は正しいのではないのか?
 そのような視点で考えると、ソクラテスやデカルトは、自分の精神と肉体が別である状態であるから「精神と肉体は別である」と主張し、また私たちは自分の精神と肉体が分かれていないから「精神と肉体は不可分である」と思えるのではないのか。
 つまり両者は自分の状態を正しく把握している。
 その判断力や理解力、あるいは(自己)認識力といったものに誤りはない。
 ただ、両者は異なった状態であって、その自分自身に対する認識が正しいからこそ、異なった主張がなされるのである。
 デカルトやソクラテスは、まさに「精神と肉体は別である」と思える状態に至ったのだろう。
 この精神と肉体の距離感が、賢人と凡人を分けるのだと思う。

 人間という種であるなら誰でも知性はあるが、精神と肉体の距離が広いと理性的、距離が狭いと感情的なのだと思う。
 ここで言う知性とは、「AはBである」や「私はあなたではない」という判断。「真と偽を区別する能力」。哲学的には「悟性」と言うかもしれないが。
 そして精神と肉体の距離が狭いと、湧き上がった感情をそのまま表現してしまう。感情的に行動してしまう。
 距離が広いと、感情を抑えることをふつうに「理性的」と言うように、感情を抑え込み、その感情が発生した根源である「自己」を見るようになる。
 「精神と肉体の距離」と言われると、なんかアレだが、ここまでならごく普通のことだと分かるだろう。

↓クリックお願いします。
人気ブログランキングへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へblogram投票ボタン

我思う、ゆえに我あり

 あれ?
 フッサールの『デカルト的省察』を読んでいたはずなんだが、デカルトの『方法序説』とか読んでいて連休が終わってしまった。

 で、デカルトと言えば「我思う、ゆえに我あり」。
 なんだか分からない言葉です。
 ↓wiki「我思う、ゆえに我あり」の解説。
一切を疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。コギト命題といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。


 はい、やっぱりなんだかわかりません。

 デカルトは一連の著作で何を主張したかったのか?
 「精神と肉体は別である」ということだろう。

 ふつう私たちは「肉体があるから私(精神)がある」と思っている。肉体と精神は不可分である、と思っている。
『デカルト 省察 情念論』(中公クラシックス)P5
 ある人々にいたっては、人間的な論拠に従えば、精神が身体と同時に滅びるものであると認めるほかはなく、ただ信仰によってのみ反対の主張は固執されるのだとさえ、あえて言明するしまつでありました。


 しかし動物にも肉体はあるが精神はない。「自分」なんて意識もない。「吾輩は猫である」なんて思いもしない。
 ここから明証的に「肉体があるから私(精神)がある」は否定される。
 そうではなくて、精神があるから「我あり」と思うのである。それが「我思う、ゆえに我あり」。
 もし精神がなければ、「我あり」なんて思わない。
 「我思う、ゆえに我あり」は、そんな簡単なことしか言っていない。

 さて、万学を修めるにはどうしたらいいだろうか?
 それには、本を読む能力が必要である。
 ただし「本を読む」と言っても、それは「速読術」のような多くの本を読破することではなく、本を書いた著者の意図した意味どおりに読む、ということである。
 文章を自分勝手に解釈していては本を読む意味がない。
 著者(相手)の意図を理解する能力、それさえ獲得できれば、どんな分野のものであっても自分のものとすることができる。偉人が一生をかけて考えたことをそれほど時間をかけず。
 もちろん私たちは普段の会話などでも、相手の意図を理解して生活しているのだから、そんな大層な話でもない。

『デカルト 省察 情念論』(中公クラシックス)P6
 私がもろもろの学問においてどのような難問をも解くために、ある方法を開発したのを知った若干の人々から、私がその仕事を手がけるようにとの、、強い要請を受けましたので、私は右の問題についていくらか努力してみることを自分の義務だと考えるにいたったのであります〔私のくふうした方法というのはべつだん新しいものではありません――真理より古いものはないからであります――が、しばしば私がこれを他の分野で用い、かなりの成果をあげていることが、彼らの注目するところとなったのであります〕。


 ここでデカルトが言う「もろもろの学問においてどのような難問をも解くために開発したある方法」、それが「精神と肉体を切り離して考えること」だと思う。
 だってデカルトは著作においてそれしか言っていないのだから。
 そして、それができていないと、本を読んでも自分の意味で解釈してしまう。
 精神と肉体を切り離して考えることができないと、その本に書かれている記述に対して、反射的に(肉体的に)何か感想を持ってしまう。
 その記述が自分にとってどう見えるか(思えるか)、というところで止まってしまう。
 その記述の「向こう側」にある著者の精神が見えていない(考えが及ばない)。

『方法序説』(岩波文庫)P20
 たくさんの作品を寄せ集めて作り、いろいろな親方の手を通ってきた作品は、多くの場合、一人だけで苦労して仕上げた作品ほどの完成度が見られない。


 先人たちの思想は、それを理解できていない「親方」たちが自分勝手に解釈したことによって、いびつな作品になってしまった。
 これを作り直そうとしたのがデカルト。
 デカルトには先人たちの思想をその意味で理解できた、と思ったのだろう。

 では、そのデカルトが考える「先人たちの思想」が本当に正しかったとして、それを私たちも承認するためには何が必要か?
 私たちも、先人たちの思想をその意味で理解できるようにならなければ、デカルトの考えを受け入れることはない。
 そのためには、精神と肉体を切り離して考える思考が必要で、その始めの一歩が「我思う、ゆえに我あり」。
 しかし、その一番簡単なところでつまずいているのが人類。

 フッサールの「現象学的還元」が、デカルトの「もろもろの学問においてどのような難問をも解くために開発したある方法」と同じようなものであるなら、フッサールを読む価値はあると思っているのですが。

↓クリックお願いします。
人気ブログランキングへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へblogram投票ボタン