「神の国」を知るには

 高木様の書き込みについて私の考えを書いていきたいと思います。
 「高木様の書き込み」って言っても、他の人には「そんなのどこにある?」となってしまうだろうから、その書き込みを引用させてもらいます。

 キリスト教の聖書のイエスの弟子たちは・・、マッタクしょうがない人たちだと、表面的には思う。
 が・・しかし・・、
 その弟子たちについて、キリスト教は言う・・、
 「イエスの十字架の後の復活を見て、初めて弟子たちは、分かる様になった」・・と。
 「復活の光に照らされる様になった」・・と。
 「復活の光に照らされた時、初めてイエスの言う神の国が分かる様になった」・・と。
 そして、キリスト教は、さらに、「つまり」という言葉でつないで説明する・・、
 「つまり、神の国の中に自分を決定的に見い出す様に、(イエスに)された」から・・と、
 この説明でお分かりになりましたか?
 キリスト教は、何時も、この様な、中途半端な言い方をします。
 イエスが、神の国が分かるようにしたと言う・・、
 行為者が分かるが、実際、分からせねばならない神の国は・・一言も説明しない。
 そして、「だから、イエスの弟子たちが分かる様になったのです」の説明に・・なってない。
 「神の国の中に、自分を見い出す事が、出来ている弟子たちに出来るようになった」・・とは?
 これも、結果だけを言っているだけで・・、肝心な、どうして出来るようになって、その結果、どの様だったなど、肝心な説明は・・何もしていない。
 「出来るようになりました」・・で、終わっている。
 何時も、キリスト教は『この手の言い方』で、分かる気になった様にしている。
 錯覚のマインド・コントロールをしている。


 まず私はキリストの復活を信じる立場です。
 まぁしかし私はキリスト教徒ではないので、そんなのどうでもいいという立場でもあります。
 キリストの復活を信じているからといって、キリスト教徒にならないといけないわけではないし。

 まず「神の国」とは何かを説明しなければならないと思いました。
 「神の国」と言っているものは、イエスが到達した世界観だと思います。考え方、物の見方というような世界観。または価値観。
 私たちはこの同じ世界を見ていますが、しかしその世界から受けるイメージ。現実世界を感覚器で切り取り自己の中に構築する内面的世界。これはその人の生きてきた経験によって違うものです。
 生きてきた経験が違うから、同じ世界を見ても、人はそれぞれ違った考えを持ちます。
 ある人がそれを正しいと考えるものが、また別のある人には逆に正しくないと思える。

 『キリストの誕生』遠藤周作著(新潮文庫)P234
 原始キリスト教団のみじかい歴史をふりかえるたびに、私にはいつも色々な疑問が起きてくる。
 疑問の第一は、おのが釈放と引きかえに師イエスを見はなし、その処刑までの二日間、息をひそめ、かくれていた弱い弟子たちがなぜ、それ以後、信仰に生き続けられたかという問題である。もともと彼等は決して最初から強い信念や信仰の人間ではなかった。彼等の大半はガリラヤ湖の漁師や人々に軽蔑される職業についていた。彼等は私たちと同じように拷問にたいする恐怖、処刑の恐れのため変節するような弱い人間だったのである。
 彼等は我々である。我々と同じように弱く、卑怯な人間である。我々と同じだから彼等は生涯のうちで最も大事な人を見棄てたのだ。見棄てただけではなく、裏切りもしたのである。その弱虫たちがなぜ、その後半生では強い信念の人、強い信仰の持ち主に変わったのか。カヤパの官邸でイエスを知らぬと否認したあのペテロはやがて、師と同じようにローマで十字架刑を受ける。しかしその時、彼は自分の信仰を貫き通す強い人に変わっていたのだ。ペテロだけではなく、他の弟子たちも。記録こそないが、語り伝えられた伝承に従うならば、そのほとんどが殉教している。
 この弱者から強者への転換、その過程が原始キリスト教団の一つの謎である。なぜ、彼等は強くなれたのか。


 自分たちが生き延びるためにイエスを裏切り、そして深い悲しみと後悔の中で弟子たちは、イエスの考えていたことがわかるようになったのではないのか。
 それまでは表面的にしか聞いていなかったイエスの言葉が、その真意までわかるようになった。
 イエスが生きていたときは、弟子たちは自分たちそれぞれの世界観があったから、イエスの言葉を自分の世界観で理解していた。わかったような気になっていた。
 しかし、
 『キリストの誕生』遠藤周作著(新潮文庫)P27
 たしかなことは彼ら(弟子たち)が師の死によって打ちのめされ、すべての希望を失うと同時に(中略)おのれの弱さとおのれの惨めさにふかい自己嫌悪を感じていたことである。


 この深い自己嫌悪によって自分の価値観(内面的世界)が破壊された。
 そうしたら、イエスの言葉がそのまま自分の中に入ってきた。
 イエスの言葉を自分の意味で解釈するのではなく、イエスの考えた意味で理解できた。
 つまり弟子たちもイエスの世界観を持つに至ったのである。
 そして弟子たちはイエスと同じように行動するようになる。同じ世界観を持っているのだから同じように行動できる。
 イエスと同じように行動するのであるから、これはイエスの復活である。イエスの魂が弟子たちの中でよみがえった。
 弱者から強者への転換。なぜ転換したのかと言えば、イエスが復活したから。
 イエス・キリストの復活とはそういうことであると私は思います。

 これで、
 「イエスの十字架の後の復活を見て、初めて弟子たちは、分かる様になった」・・と。
 「復活の光に照らされる様になった」・・と。
 「復活の光に照らされた時、初めてイエスの言う神の国が分かる様になった」・・と。
 「つまり、神の国の中に自分を決定的に見い出す様に、(イエスに)された」から・・と、

 このあたりの意味はわかると思います。
 もちろん、高木様の世界観で読むのではなく、私の世界観で読まなければわからないのですが。
 しかしこれが難しい。

 肝心な、どうして出来るようになって、その結果、どの様だったなど、肝心な説明は・・何もしていない。
 「出来るようになりました」・・で、終わっている。

 私が説明する努力をしなければならないのか。
 それとも高木様が理解する努力をしなければならないのか。
 しかし「理解」に必要なのは「経験」です。
 私が説明する努力をしてもその努力は私のものになるのであって、高木様の経験にはならない。
 高木様の経験が変わらない以上、高木様がわからないことはわからないまま変化しません。

 このイエスの復活が分からなかった人は、「神の国」に入れないと・・、この言葉だけは、明確に、はっきりと説明する。怖(こわ)い、罰がありますと言う。
 イエスの復活は、神の国への招待ですと言うが・・、分からない人は、その御招待も駄目となっている・・と。

 高木様がイエスやその弟子たちと同じように生き、その経験をすることによってイエスの言葉が初めてわかるようになると思います。それが信仰です。
 そしてイエスの世界観を自分のものにすること(イエスの復活)によって「神の国」を見出すことができるでしょう。

 私がキリストの復活は信じているが、でもキリスト教徒にはならない理由は、現在のキリスト教の指導者、たとえばローマ法王などがイエスや使徒たちと同じように生きる努力をしているとは思えないからです。
 ただの既得権益者にしか見えない。
 本当にキリスト教徒はキリストの復活を信じているのか?
 信じているのであれば、自分の生き方を変え、少しでもイエスや使徒たちに近づくように努力しているはずです。

 で、私がキリスト教徒にならないもう一つの理由は、イエスのように生き、そして「神の国」を見出したとしても、その結末が殉教じゃあイヤだからです。

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