「なぜ?」ローマ法王と少女

「なぜ悲しい思いを…」 ローマ法王に震災を尋ねた少女(2011.4.23)asahi.com
 ローマ法王ベネディクト16世が22日、イタリア国営テレビRAIの番組で、東日本大震災を経験した日本在住の少女の「どうして日本の子どもは怖くて悲しい思いをしなければならないの」との質問に答えた。
 質問したのは千葉市に住むエレナ・マツキさん(7)。自宅マンションのベランダで撮った日本語のビデオレターで尋ねた。
 これに対し、法王は「私も自問しており、答えはないかもしれない。(十字架にかけられた)キリストも無実の苦しみを味わっており、神は常にあなたのそばにいる」と答えた。


 アウグスティヌスは次のように言っている↓

 ですから主よ。それらのものをお造りになったのはあなたです。あなたは美しい。なぜならば、それらのものは美しいのですから。あなたは善い。なぜならば、それらのものはみな善いのですから。あなたは存在する。なぜならば、それらのものは存在するのですから。しかしそれらのものは、それらのものの創造主であるあなたが美しいように美しいわけではなく、あなたが善いように善いわけではなく、あなたが存在するように存在するわけでもありません。あなたに比較するならば、これらのものは美しくなく、善くもなく、存在もしない。
 私たちはこれらのことを知っています。その知を与えてくださったことにたいして、感謝いたします。しかし私たちの知も、あなたの知にくらべるならば、無知にひとしい。(『世界の名著アウグスティヌス』中央公論社/山田晶訳P404)


 私たちの、この「なぜ?」という思考自体が神によるものです。
 私たちが世界を認識する、その「知」自体が神によるものであり、この「知」に従って私たちは客観的世界を認識し、自己の内面に主観的世界を創造する。

 そして、この「なぜ?」という思考は人間以外の動物は持っていません。
 動物は言葉を使えないが、もし「なぜ?」と思っているなら行動で伝えようとするはずです。人間でも言葉を使えない者はいるが、彼らは行動でそれを示すのだから。これはデカルトの動物機械論です。

 キリストは無実の罪で死んだが、このときキリストの使徒たちは「なぜ?」と苦しんだ。だからこそ、使徒たちの中にキリストが復活したのである(←遠藤周作の『キリストの誕生』)。

 災害で人が死ぬ、これに理由はない。天罰ではない。
 しかし、この死に意味を与えるとしたら、それは「なぜ?」と私たちが思うことに価値がある、とするしかない。
 だから法王の「私も自問しており、答えはないかもしれない」は、正答であると私は思う。

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幸福とは何か

 ソクラテスは対話篇『エウテュデモス』において、若者に知恵と徳を心掛けるように説く問答として、どのようなものを期待しているのか、それを自ら実演する。
 「われわれ人間は誰でもうまくいくことを望むのではないか」とソクラテスは問う。これは問いを出したソクラテス自身が言うように肯定するよりない問いであるが、それではなぜ私たちはこの問いを否定することができないのだろうか。

 「誰でもうまくいくことを望む」のであるから、誰にでも共通してあることが原因のはずである。その原因とは「記憶」ではないだろうか。人はそれぞれ記憶した内容(育った環境)は違っても記憶する(記憶がある)ことは、誰にでも共通することである。
 そして人の行動とは、記憶(過去の現象、知覚した誰かの行動)を真似ることではないのか(それが存在を自己とするということである)。そう考えれば、行動の結果としての成功・失敗(念頭にある記憶(思い)をうまく真似た、真似そこなった)はあるものの、行動そのものは、うまくいくことを望むよりほかはない。
(では「オリジナル」とは何か? 他者の行動を真似しそこなったが、しかし、それがより普遍性や他者にとっての有益さを持つとき、それが新たなオリジナルとして認知されるのだろう)

 また、古代ギリシャ語のうまくいくことευ πραττεινは、幸福であることも意味する。幸福であるとは「望んでいることが叶って幸せであること」であるが、これは思いどおりに事が運ぶと快い感情を持つ、とも言い換えられるだろう。
 望んでいる思いに向かっての行動は、その行動が思いどおりに進めば、それは快いものである(自己の存在が大きくなるのだから、これは喜びである。「思い」は誰かの真似であるのだから、そこに根拠・一体感が生じる)。また、自分の思いが何かに阻まれ、思いどおりにならないと不快であり、これが不幸である。
 ゆえに「幸福とは思いどおりになること」と言うことができる。

 しかし注意しなければならないのは、思い(思い描く幸福)が不正であれば、それに向かって行動しているときは、その成功を想像し、それゆえに快であり、それは確かに幸福(思いどおり)であるが、その目的が果たされたとき、そこには思いもしなかった結果(自分が想像できなかった結末)が待っているのだから、それは不幸であり見せかけの幸福である。
 つまり、行動に先立つ「思い」が正しくなければ、いくら行動したところで、幸福になることはないのである。ゆえに真の幸福には正しい思いなしが必要である。そしてそれは愚かな魂(幼稚さ)を捨て、つまりそれまでの自己を否定して、正しい魂を存在として求めるということになるだろう。

 しかし人は自分の死を経験したことがないのだから、それが幼稚な魂であっても、それを自ら否定すること・他者に否定されること、つまり魂の死を拒否する。ゆえにどうにもならなくなったときは、ともすれば肉体の死を選択する。
 対話篇『パイドン』において、刑死を控えるソクラテスは次のように述べる。

知を求めることに、まっすぐに結びついているひとは、ほかでもなく、ただ死にゆくことを、そして死にきることを、みずからのつとめとしている(『プラトン全集1』岩波書店/松永雄二訳P176)

 「知を求める」とは、幼稚な自己を捨てることであるのだから、知を求める人とは魂の死の訓練をしている、ということである。
 また「不幸とは自分の思いが何かに阻まれ、思いどおりにならないこと」と言ったが、そもそも自分の思いを阻んでいる、その真の原因は自分自身(幼稚な魂、過去の記憶による囚われ)にあるのである。

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罪と罰

 法とは「転ばぬ先の杖」だと思う。
 人はそれをやってみないと分からない。しかし人を殺してみて「こんなの望んでいなかった」と思っても、それは後の祭り。覆水盆に返らず。
 だから先人が「しないほうが良かった」というものが法となる。戦争で人が死にすぎて、こんなの望んでいなかった、と戦争のルールが作られたり。
 だから法は「~してはならない」と言い、「~してもよい」とは言わない。

 たとえば人殺しは、あたりまえだが後悔する。後悔したくないから(幼稚な自分を大事にしすぎて)犯行後に自殺するケースも。
 で、殺人者が後悔したとき、誰が許しを与えるのか?遺族?
 しかし自分(殺人者)の後悔を遺族の許しで満たすことができるのか?
 私は殺された本人の許しがなければ、殺人者はそれ以前と同じように暮らしていくことはできないと思う。
 それ以前と同じように暮らすことができないのは「囚われ」があるからで、それは狂気の人生である。狂気とは、あることに固執することであり、それは自由の対極にあるものである。
 その「囚われ」は自分の頭の中にあるのだから、生きているかぎり、その「囚われ」に縛られることになる。それは自由な人生ではない。
 死刑から逃れるために、偽りの謝罪で生き延びた者は、自身に対する「囚われ」も強くなり、その狂気も強くなる。
 だから、もし自分が殺人を望むなら、それは死者を生き返らせる技術が開発されてからのほうが無難である。

 法(先人)は「人は殺すな」と言っているのに、わざわざそれをやって、死か狂気か、そんな救いのない選択に追い込まれるのは愚かである。その選択肢の少なさから、それは豊かな人生ではないし、自由な人生でもない。

 刑罰とは。
 罪は、愚かで幼稚な(感情的な)自分によって引き起こされたものであるから、罪を反省して、幼稚な自分を捨て去れば(感情的な自分を捨て理性的になれば)、社会としては受け容れない理由はない。
 また幼稚な自分を捨て去ったということは、他者に対して利益を与えることができるということでもある。
 そして罪を反省する手段として罰が科せられる。罰によって感情が否定され、理性に転化するのである。
(犯罪者は本当に反省しているのか、本当に幼稚な自己を捨て去って成長したのか、そこに疑問を持つ事件が多々ある。「罰を受け入れるから犯罪をする」では、そもそも法の精神が分かっていない)
 しかし、人を殺してしまっては、むしろ幼稚な自分に固執してしまうのではないかと私は思う。
 真に幼稚な自分を捨て去るには、どうしても殺された者の許しが必要なのではないかと思う。

 だから私は、裁判で加害者の幼少期の貧困・虐待を理由に減刑されたり、また被害者の遺族の感情が刑罰に影響するのに疑問を覚える。
 そうではなく加害者一個の人生を考えるべきである。そして狂気の人生は加害者のためにはならない。

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善悪を定義する

 私は、悪を「自分のためにも、他者のためにもなること」と定義する。
 悪を為す者は、それが自分にとって何らかの利益になるとと思い込んでそれを行うのであるが、しかしそれは結果的に後悔することになる。そのような後悔をしないように法律が存在するのであり、法律は「転ばぬ先の杖」である。

 逆に善とは、「自分のためにも他者のためにもなること」と定義する。もっとも、「自分のためにも他者のためにもなること」を為すのは知恵を必要とする。

 このほか、「自分のためにはなるが他者のためにはならないこと」と「他者のためにはなるが自分のためにはならないこと」のパターンが考えられる。
 このうち「自分のためにはなるが他者のためにはならないこと」は、先ほど述べた悪であるから、それが自分のためになると思い込んでそれを行うのであるが、結果的に自分のためにもならないことになる。
 だから悪とは「愚かさ」に起因するとも言える。

 残された一つ、「他者のためにはなるが自分のためにはならないこと」は、感情が先行して賢さが足りない状況であり、その自己満足は、おそらく最終的に破綻するだろう。それは善とは言えない不確かなものであると思われる。
 しかし「他者のためにはなるが自分のためにはならないこと」を続けるうち、その他者との交わりによって知恵を得て善に変わる可能性もあるだろう。

 ポイントは、自分と他者との関係で善悪を定義しているところ。
 もし他者との関係がなければ、自分の快が善となってしまう。しかし、自分の快楽を突き通したがゆえに犯罪となることは多々あるだろう。と言うよりも、すべての犯罪は自分のために行なわれるのである。
 また自分の快楽(感情)を優先することは愚かさであるが、この愚かさを善とすることはできない。自分の感情を優先する者は他者にとって迷惑であり、この者を善と評価する者はいないだろう。

 そういうことで善を、自分と他者との関係とすることで放縦を否定し、また知恵を要請する。知恵は良いものであり、また善も良いものであるのだから、善と知恵を結び付けることは正しいことだろう。知恵がなければ(それが愚かであれば)、それは善ではない。

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自殺を考える

 自殺は、自らの精神を生かすために肉体を殺すことだと思う。

 なにか困難があって、それを克服するためには、これまでのやり方が通用しないのだから、自らの精神(我)を一旦捨てて新たに一から構築しなければならない。
 しかし、その我を捨てることを拒否し、我に執着し、我を抱え込んで、肉体を殺すこと、これが自殺だと思う。

 しかし私は、むしろ我を殺して肉体を生かすべきだと思う。それが成長であろう。これまでのやり方が通用しないということは、今までが幸運で、周りの人に助けられていただけで、しかし実は自分は愚かだったのだから。
 その愚かな自分を捨て、賢い自分になれる契機を、自殺で失くしてしまうのは救いようがないと思う。

 私が高校生のとき、ある小学生がいじめを苦に自殺したというニュースを見た。
 高校生の私が思ったことは、この自殺に影響されて、今、同じようにいじめを受けている他の小学生も、おそらく自殺を考えるだろう、ということ。マスコミは「いじめっ子は悪」と糾弾してくれるのだから、どうすることもできないいじめられっ子はそれにすがるだろう。しかしマスコミはメシの種だからやっているだけである。

 さて。
 自殺をする人は、他者を殺すことになるという意味で、人殺しです。
 この人殺しに対して「武器を捨てておとなしく投降しろ」と、他者の自殺を止めようとするのは、ごく当たり前なことです。社会秩序を乱しているのだから。
 問題は自殺をしようとしている人が、自分が何をしているか分かっていないこと。本当に自分のことだけしか見えていないのだろう。

 自殺をしようとする人に言えることは、大人になったらもっと気楽になるかもよ、ということ。
 もちろん大人も自殺をするが、しかし自殺をするということは、我を殺したことがないということであり、それはただ歳を取っているだけの子供です。
 そして大人の自殺に影響され子供も自殺するのだから、大人は子供に対する責任をもっと考えるべきである。自分を大人であると自負しているのなら。

 まあ、「なぜ人を殺してはいけないのか」でもそうなんだけど、私は履き違えた自由が嫌いなわけです。私のこの精神は、他者との関係で作られたものですから、他者を殺していい自由も、自分が死んでもいい自由も与えられていません。先天的に私が私であったなどと認めることはできません。
 もちろんこの肉体はDNAによる先天的なものです。しかし、デカルトが言うように精神と肉体は別のモノです。だから、精神を生かすために肉体を殺そうとしたり、肉体を生かすために精神を殺そうとしたりするのです。

 そして私は、山本常朝が言う「武士道とは死ぬことと見つけたり」のほうが正しいと思う。ここで死ぬのは精神である。武士道は禅が基礎にあるのだから、仏教が言う「我をなくせ」という観点から山本の言葉を解釈するべきである。山本が言うのは自分のつまらない感情で動いてはならないということ。まあ、それで主君(お家)のために働き、そして死ぬことも良しとするのだが。
 それは「主君のために」という心構えによって、自己を一段低いところに置き、愚かな自分を客観的に見ることができる。そうすることで精神と肉体は別物であると自覚することができるようになる。
 心身二元論のデカルトが神の存在を証明しようとするのも、精神と肉体を自覚することは優れた知恵であり、そのために(山本にとっての主君にあたる)全知全能の神を必要とするからだろう。

 ↑これに対し、どのような反論があるだろうか?

 1)
 我を殺したことがない人間など存在しないのではないか?
 そんなことは誰でも経験済みなことで、それでもなお自殺をする者がいるのではないのか?

 しかし、我を殺したことがあるのなら自殺はしない。なぜなら、我を殺せば肉体を殺す必要はないから。そういう単純な論理である。

 この「我を殺す」を「感情を抑える」と理解しているのであれば、確かに上記のような疑問も出てくるだろう。誰だって感情を抑えたことなど何度もあるだろうから。
 そうではなく、我を捨てて真我(大我)を得る、みたいなこと。
 我を殺すことで、感情が発生する原因である自己の「存在」を自覚する。
 なぜ感情が発生するのか、を仏教的に言えば、縁起によって業となったからである。その業が自己の精神の自由を制限している。
 分かりづらいだろうけど、「感情を抑える」からには感情があるのであり、その「感情」とは何か、と考えていけば「存在」に行き着く。

 「感情を抑える」のは、それが自分のためになるからそうするのである。
 まあ、それは誰でもそうなのだが、しかし、それでもなお自殺する者は、「殺す」と言うほどの自己との対決がなかったのではないのか。
 この「自分のためになる」がくせ者で、間違った・愚かな自分をなくし、より正しい自己になることが「自分のため」なのか、それとも愚かな自分の逃がすために相手を受け入れ、自分の感情を抑えることが「自分のため」なのか。前者は自分との対決であり、後者は他者との対立である。
 そして後者のように、愚かな自分を逃がしてきた者が自殺することになるのは、当然と言えば当然である。

 2)
 人は別に他者のために生きているわけではないから、自殺をしない理由にはならない。

 まあ、その人は自分のことだけしか見えていないのだろう。
 もっと言えば、自分のことすら見えていないのではないか。この自分の精神がどのように成立しているのか分かっていないのだろう。あるのは感情だけ。感情に隷属しているだけ。
 それはただ歳を取っているだけの子供にすぎない。
 もちろん、その者は子供であるから、与えられるのが当然であると思っていて、他者のために生きているのではないだろう。
 でも、精神的に大人になれば、その意識は変わるんじゃないのか。
 「行動とは、その根源を見ればすべては真似ある」と思ったり、また「アイデンティティも幻想にすぎない=業とは自己のものではなく縁起によるものである=一切皆空」と思うようになるとか。

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