デカルト的、神の存在証明

 1、「神」という観念を持っている以上、神は存在する。

 赤ちゃんは無知であるから、親を親と認識できない。そのときは、何か善いものというイメージしか持たない。この「何か善いもの」というイメージが神の正体である。だから神は人の形をしている。
 そして経験によって親を親と認識するようになる。この「親」の観念と「神」の観念は別々のものとして扱われる。「神」のイメージを持ったときと「親」を認識したときでは、子どもの情報量に違いがあるから。
 そして大人になっても、その「神」のイメージはなくならない。
 そしてまた何か困難があったとき、赤ちゃんのころ、神(親)に願って奇跡が起きたように、その再現を期待して神に祈るのである。
 つまり、人は神を経験したことがあるのだから、当然、神は存在する。

 2、神は「完全」であり、それに対し、人は有限である。有限である人が「完全」という観念を持つのは神が存在するからである。

 赤ちゃんは無知であり、神(親)は全知全能である。
 無知であるから欲求が限られている、とも言えるが、その赤ちゃんの要求を神(親)は完璧にかなえることができる。ゆえに神(親)は全知全能である。
 この「完全」を人は持たない。「完全」は神だけが持っているものである。ゆえに神は存在する。

 3、「無限」という観念は神によるものである。

 私の「神」の観念は親によるものである。
 では親が持つ「神」の観念は?
 それは親の親によるものである。
 では親の親が持つ「神」の観念は?
 それは親の親の親によるものである。
 ……
 このように「無限」は神によるものである。私たちは「無限」の観念を持つのだから神は存在する。


『方法叙説』ルネ・デカルト三宅徳嘉・小池健男=訳白水UブックスP7
師と仰ぐにはおそろしい人だ。かれの目はこう言っているようだ、「またひとり思い違いをする。」―アラン―

 この「アラン」とは『幸福論』のアラン、つまりエミール=オーギュスト・シャルティエだろう。
 アランはデカルトが記した意味で『方法叙説』や『省察』や『情念論』を理解したのだろう。
 もちろんカントの「コペルニクス的転回」は正しい。しかし、デカルトの意図を理解できずにデカルトを否定したカントは残念ながらデカルトには劣る。デカルトと同等の知性がなければデカルトを読むのは難しいだろう。
 まあ、同時期にガリレオ・ガリレイの宗教裁判もあって、直接的に書いていないデカルトのせいでもあるんだけど。

 なにか「いろはにほへと」を知っているから、それを読んだ気になっている人がカントを始め多いように思う。
 しかし、「いろはにほへと」を知っていることと、それを理解できているかはぜんぜん別の次元であると思う。
 そういうものとして、ソクラテスやアウグスティヌスやデカルトや西田幾多郎があると思う。

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クオリアとか哲学的ゾンビについて

 「クオリア」って何だろ?

 舌に凹みたいな感覚器があり、砂糖の凸が舌の凹に適合したら、信号が脳に送られる。
 この信号が脳の扉を「コンコン」とノックしたときクオリアが発生する。
 クオリアが「ちわーッス」と脳の中に入って、脳(記憶)の中から「あ、甘いね」ってのが取り出されたら、それはもう思考や判断というプロセス。
 そうするとクオリアとは神経伝達物質ってことになるのか?

↓神経伝達物質(ウィキペディアより)
放出後
神経伝達物質はシナプス間隙に放出されると、拡散によって広がり、後シナプス細胞の細胞膜上にある受容体と結びついて活性化される。受容体がイオンチャネル型の場合そのイオンチャネルが開き、受容体が代謝型であればその後いくつかのステップを経てイオンチャネルを開かせ、後シナプス細胞に脱分極ないし過分極を生じさせる。放出後は速やかに酵素によって不活性化されるか、または前シナプス終末に再吸収され、一部は再びシナプス小胞に貯蔵され再利用される(元のシナプス小胞に戻るのではなく別のシナプス小胞に充填される)。


 「甘い」というクオリアが発生したあと、クオリアはどうなるのか?
 「ハイ、甘さが来ました」と頭で感覚したときには、もうクオリアはなくなっている感じがする。
 それはwikiの記述の中の「放出後は速やかに酵素によって不活性化されるか、または前シナプス終末に再吸収され、一部は再びシナプス小胞に貯蔵され再利用される」ということではないのか。

 なんかこれを書いていて思い出したのが西田幾多郎の「純粋経験」↓(青空文庫『善の研究』より)
経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那(せつな)、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。

 で、私が思うことは。
 問題1)私の「赤」とあなたの「赤」は違うかもしれない。

 いや、そんなことないでしょ。
 目や脳に損傷があったら違うかもしれないけど、基本的に同じです。
 違うとしたら、それは思考で加工した後の記憶としての「赤」であって、クオリアとしての「赤」は同じものです。
 人間は、目は二つで鼻は一つ、口も一つで、そのように身体のつくりは共通してあるのだから感覚器も同様であり、ただの感覚器の問題であるクオリアも共通でしょう。

 私とあなたが違うのは、クオリアが違うのではなく、記憶・経験が違うからである。クオリアに間違いはなく、間違うのは思考・判断である(赤外線を感知できる一部の動物とは根本的に違うだろうけど)。
 つまり「(心における)感じ方が違う」とはクオリアの問題ではなく、記憶・経験の問題で、でも「質感が違う」なら感覚だからクオリアの問題。質感とは感覚(光とか甘さなど)の強度だから。

 問題2)「哲学的ゾンビ」について。

 目を閉じて「赤、出て来い」と思っても、色は出てきません。感覚器に刺激がないのだから当然です。このことから記憶の中にクオリアはないと言えます。

 さて、哲学的ゾンビとはクオリア(感覚器)はないけど、それが「赤」だと判断できるモノ。
 例えば、私の目が見えなくなったとする。隣にいる人が「目の前にポストがあるよ」と言う。
 そしたら私は「それは赤いんだね」と判断する。まさにクオリアはなく、しかし判断ができる状態。
 で、そんな私は哲学的ゾンビか?
 →違う。それは記憶があるから。

 つまり「私」とはクオリアに関係なく、記憶に関係する。
 もちろん何一つ感覚がなく、ゆえに記憶もない状態であれば、「私」は存在しない。
 このことから堕胎は許されることになる。
(それでも胎児は、音は知覚できるから、堕胎できるのは何ヶ月まで、と線引きが必要だけど。そしてそれは母体の安全で線を引くのも妥当と思う)

 そもそも「私」を説明できないから、クオリアという道具を使って「私」を解明しよう、ということなんだろうか。
 でもクオリアはただの感覚の話で「私」とは関係ないと思う。

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理性と感情

 まず、赤ちゃんに理性はありませんね。
 自分の感情のおもむくままで、何かを堪えるということはありません。
 ゆえに赤ちゃんには理性はありません。

 つまり感情は生まれつき誰でも持っているもので、理性は経験的・後天的なものです。

 では、理性が経験的なものであるのならば、それはどのように発生したのかを考えなければなりません。
 それは自らの感情が否定された経験が記憶となって、「それをしてはならない」という理性となります。
 だから(経験的なものだから)人によって理性の程度は違います。

 また自分の感情を大事にしたいがために理屈を構築する人もいるでしょう。
 しかしそれは否定ではないので理性とはなりません。感情から派生したものです。
 そして自分の感情を肯定する感情(理屈)を重ね続ければ、それは精神が分裂する恐れがあります。
 精神が複雑であることは賢いのではなく、それは狂気に近いものです。
 だから、自分の間違いは間違いとして受け入れるというシンプルな精神構造であるべきです。そしてそれは理性を強化することにもなります。

 では感情について。
 人は「絶対無」から始まる。それは赤ちゃんの記憶は何一つない無から始まるということである。精子や卵子には記憶細胞がないのだから、当然である。先天的に父親や母親から記憶を受け取るということはない。

 で、「絶対無」であるから、自己は何一つ根拠を持たないということである。
 根拠がなければ行動できないが、しかし親を「存在」とすることで、それを行動根拠にする。親がやっていることを見て、それはそうやってもいいのだと思い、それを真似する。
 また神を「存在」とすることで、それが行動根拠になる。神が「これをやれ」と言ったことをやって、神が「これをするな」と言ったこと以外はそれが許される。

 で、反抗期あたりで、親もただの人であり、自分の「存在」にはならないと思うようになる。
 そして自己に「存在」を構築し、自己の「存在」を大きくしようとする。
 「存在」とは行動根拠であるから、「存在」が大きければ、より大きな成功が得られると思うのである。そしてそれは快楽でもある。

 スピノザは『エチカ』で、根本的な感情として、欲望と喜びと悲しみを挙げる。
 そして喜びとは自己が大きくなることであり、悲しみとは自己が小さくなることである、と定義する。

 自己が大きくなることは喜びであるから、人はその快のために、自分の感情を守るために理屈を構築する。
 しかし私は、それではダメだと思う。それではいつまで経っても幼いままである。

 なぜ感情は発生するのか?
 自己の根源が「絶対無」であるから。
 そして「絶対無」であるから「存在」を希求する。
 その「存在」が大きなもの・確かなものになれば喜びであり、「存在」が小さくなったり、脅かされれば悲しみである。

 では、法はなぜ有益なのか?
 それは自己の感情を否定するものだからである。ゆえに理性的に生きていけるのである。
 そして法を犯した者は、罰を受けることで自己が否定され理性的になり、生まれ変わったとして社会に復帰できるのである。
 謝罪をしてもそれが自分を守るためのもので、罪を反省していないのであれば社会に復帰させるわけにはいかない。
 そういうわけで、法(秩序)がなければ理性が生まれないのである。理性は経験的なものだから。

 ↑どう?
 なかなか自分の精神や心といったものがどのように作られているか、なんて考える者はいないでしょ?
 哲学は、人間の精神や心といったものがどのように成り立っているのかをソクラテスが解明したから誕生しました。すべてを観察する主体の精神の解明であるからこそ、哲学は万学の基礎となります。
 また、人間の精神や心といったものがどのように成り立っているか、解明したところからが人生のスタートだとすれば、人生が始まらないまま人生を終えている人ばかりで、それはなんだか残念な気がします。
 ソクラテスが『弁明』で言うように、「自分の人生は誰よりも幸福であった」と言うには、まずは人生をスタートさせる必要があります。

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西田幾多郎

 西田幾多郎は明治後期から昭和初期の哲学者。
 「わが日本古より今に至るまで哲学なし」とは、明治時代の中江兆民が『1年有半』で言っていることだが、日本の哲学者と言えば、この西田幾多郎。
 「自己」とか「存在」とかいうものの理解を深めるには西田は避けては通れない、と思う。
 まあ、そういうのは必要ないってのが日本人で、だから「わが日本古より今に至るまで哲学なし」だったわけだが。

 で、西田哲学の重要なキーワードの解説↓

 「絶対無の弁証法」とは。
 私たちは絶対的な無から始まる。
 しかし、この絶対無同士が出会うとき「有」が生まれる。
 あらゆる「有」とは、多数の絶対無による共通了解である。

 では「絶対矛盾的自己同一」とは。
 私たちは他者を自己とする。
 他者を自己とするのだから、これは絶対矛盾的と言える自己同一である。

 あと、西田幾多郎と言えば「純粋経験」であるが、この「純粋経験」について書いているのが西田の『善の研究』である。当時はベストセラーだったらしい。
 ただ、私自身はあまり『善の研究』がおもしろいとは思わない。なんか西洋哲学の借り物な感じで、西田のオリジナルが乏しい。
 西田自身も再版の序で、「絶版にしちゃおっかなぁと考えた」とある。

↓青空文庫『善の研究』より
この書を出版してから既に十年余の歳月を経たのであるが、この書を書いたのはそれよりもなお幾年の昔であった。京都に来てから読書と思索とに専(もっぱら)なることを得て、余もいくらか余の思想を洗練し豊富にすることを得た。従ってこの書に対しては飽き足らなく思うようになり、遂にこの書を絶版としようと思うたのである。しかしその後諸方からこの書の出版を求められるのと、余がこの書の如き形において余の思想の全体を述べ得るのはなお幾年の後なるかを思い、再びこの書を世に出すこととした。

 「純粋経験」は、あまり「自己」とか「存在」というものに関係ないし。
 「純粋経験」でないものこそが「自己」とか「存在」というものである。

 なんかね、主著の『善の研究』が西田の著作の中で一番違和感がある。
 西田は後期のほうが面白い。

 本当は、もう一度西田幾多郎を読み返したほうがいいのだが、西田哲学はとにかく厄介で躊躇している。
 で、この前読んだ『西田幾多郎』(永井均/NHK出版)を元に、間接的に西田哲学を解説してみよう、と思う。

P22
「釈迦、基督が千歳の後にも万人を動かす力を有するのは、実に彼らの精神がよく客観的であったが故である」(『善の研究』117ページ)。すぐ続けて西田は「我なき者即ち自己を滅せる者は偉大なる者である」と言っているが、この論理展開には疑問がある。釈迦やキリストが千歳の後に万人を動かす力を持ってしまったのは、彼らの精神が(中略)むしろ客観的ではなかったからではあるまいか。

 違います。
 「なぜ自分の言葉を他人も理解できるのか?」という問題に関わってくることですが、それは言葉にはロゴスがあるからである。
 ゆえに普遍であり、普遍であるから他者と共有できるのである。千歳の後にも多くの人がそれを理解できるのである。
 それは「実に彼らの精神がよく客観的であったが故である」。
 そして、狂人の言葉が他者に通じないのは、あまりに個性的すぎるからである。

P50
さて、しかし、比喩を離れて端的にいえば、自覚とは「私が私に於いて私を知ること」である。

 私が「私」を知る。

P54
すべての経験的知識には「私に意識せられる」ということが伴わねばならぬ、自覚が経験的判断の述語面になるのである。普通には我という如きものも物と同じく、種々なる性質を有つ主語的統一と考えるが、我とは主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ、一つの点ではなく一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ。(『論集Ⅰ』一四一ページ)

 ”私”とは意識〈私〉ではなく、精神「私」。
 意識するもの=主語的な〈私〉ではなく、意識されるもの=述語的な「私」。

P58
「SはPである」という判断に於いて、主語はより特殊なもの、述語はより一般的なものを指しており、主語のより特殊的なものが述語のより一般的なものに包摂されることによって判断が成立する、と西田は考えている。

 意識〈私〉は特殊なもの。個性・肉体的なもの。
 精神「私」は一般的・普遍的なもの。
 〈私〉は「私」に包摂される。それは《私》として判断される。

P66
「判断の立場から意識を定義するならば、何処までも述語となって主語とならないものということができる」(『論集Ⅰ』一四〇ページ)と言っていた。つまり、述語となって主語とならないものは、「意識」、場所としての「意識」、場所の自覚としての「意識」である。つまり、場所が場所の内に自分自身を映すことそのものである。

 「判断の立場から意識を定義する」で言われる”意識”とは、《私》である。判断する〈私〉と判断される意識《私》である。

P95 私は主格となり、一個の自我となる
さて、そうなると私は、もはや無の場所ではなく、別の無の場所に登場しうる存在者(有る物)の一つとなる。これは私の死である、と同時に私の誕生でもある。なぜなら、他者の無の場所に登場できることによって、私は、私自身の(生の)無の場所に、一人の人間(個人)として、言い換えれば客観的な固有名を持った一つの個物として、登場できるようになるからである。そのことによって、私も汝も彼となる。私と汝が彼である場所は、さらに第三の者(the third person=第三人称)の場所だが、その第三者はすでにして彼なのだから、ここに抽象的な客観的な場所が生まれる。

 私の「私」が普遍性を持つ。以前の「私」が死んで、新たな「私」が誕生する。
 普遍性を持つ「私」は他者の無の場所に登場できる。

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なぜ人を殺してはいけないのか1

 なぜ人を殺してはいけないのか?
 それは『後悔するから』。

 私は、犯罪を考える場合、「愚かさ」と「後悔」と「許し」が重要な要素なのではないか、と思う。
 殺人は愚かさゆえに行なわれ、結局、後悔することになるが、その許しは得ることができない。後悔したとき許しを与えてくれる者はもう存在しない。その許しを与えてくれる人を殺すことが殺人なのだから。
 だから、人を生き返らせることができるようになるまでは、殺人はしないほうが良いだろう。
 それは、たとえ死んだ者の身内や恐山のイタコや神への懺悔によって許しが得られたとしても、それは完全な許しとは言えず、どこかで自分で自分を肯定しなければならなくなる。その我執は自由な精神を損なうことになる。
 自分の記憶は自分が生きているかぎりなくすことはできないのだし、また自分の意志に関係なく、記憶は折に触れて思い出されることになる。

 また、もし後悔しなかったら、それは自己に固執しているということで、それは狂気に陥る。
 精神の狂いとは、知ることの、精神の成長の拒否だと思う。
 だから、一つのこと(例えば自己の思想)にこだわるのが狂気。逆に知ること・聞くこと(つまり「他者」)は選択肢(自由)を広げることになる。
(ソクラテスは生き延びることを望めばそれができたのに死を選んだのは、快楽ではなく、知るということが人間の第一義であり、知のない狂気の人生に価値はないから死刑を選んだのではないか)

 つまり、人を殺した場合、後悔するか、狂気に陥るかの二択になる。
(↑根拠が弱いのは認める。でも精神がどのように成り立っているのか、また精神はこうすればこうなるみたいな、精神における足し算引き算ができれば、↑これは納得できるんじゃないか、と思う)

 また、戦争における殺人やテロリストや凶悪犯を射殺すること、正当防衛の場合、後悔することがないのだから、この場合は「殺してはいけない」とは、なっていない。法務大臣の死刑執行も後悔する必要がない。
 もちろん「原則として」だから、個々のケースで、大義名分のない戦争であったとか、過剰防衛だったとかはあるだろうけど。

 そもそも「法」とは、古代からの叡智で、転ばぬ先の杖だと思う。
 これまでも幾多の人が「しないほうが良かった」と言っていることを、わざわざやってみるというのは愚かだろう。


 「なぜ人を殺してはいけないのか」
 この根底にある問いは「なぜ法を守らないといけないのか」だと思う。
 自分の利益を重視して人を殺す、とか。
 刑罰を受け容れるから人を殺す、とか。
 そういうことが現実として行なわれており、その現実のほうが正しいのではないのか、という問い。
 つまり「法を守らないほうが賢い生き方ではないのか」という問い。
 それはおそらく、人の上に立つ者たちが、むしろ法を守らずにいる現実からのもの。
 しかし、それに対して、ごくごく当たり前に「法を守らないのは愚かな行為である」と私は主張する。
 むしろ、これこそが真に現実的であると思う。
 犯罪者や一部の人の上に立つ者たちは、その愚かさゆえに現実を把握できていないだけの話で。

↓「押すなよ。絶対に押すなよ。絶対だぞ」と言われたら、むしろ押したくならないかな。かな?
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