神とは何か―ソクラテス的な詭弁―

 「ザクレタは熱いねぇ」。
 と言われても、いったい何のことか分からないだろう。
 では、「神様にお願いをする」と言われた場合はどうだろう?

 あなたは「神様にお願いをする」とは、どのようなことか分かるだろうか。
 もし分かるのであれば、あなたは神とは何かを知っていることになる。
 なぜなら「ザクレタ」は、熱いものなのか、痛いものなのか、はたまた甘いものなのかも分からず、判断をすることができなかったのに、少なくとも神様はお願いされるものだと知っているからである。

 ところで、「ザクレタ」とは『武神』というプレイステーション2のゲームに出てくる、炎による攻撃魔法である。『ウィザードリィ』というゲームであれば「マハリト」であり、『ドラクエ』であれば「ギラ」ということになる。
 炎の魔法であるから「ザクレタは熱いねぇ」という訳である。お分かりいただけただろうか。
 さて、私は私が知っている「ザクレタ」をあなたに説明したのだから、今度はあなたが、あなたが知っているという「神」とはいったい何かを、もったいぶらずに私に教えてくれてもいいではないか。

 では、↑上の話は、いったい何を言いたいのかと言えば、
「あなたは「神様にお願いをする」とは、どのようなことか分かるだろうか。
 もし分かるのであれば、あなたは神とは何かを知っていることになる」
 ここ重要。

 誰だって当たり前のように「神様にお願いをする」と言ったり、その言葉を理解することができるだろう。しかし、それはすなわち、誰もが神を知っているということであり、そしてそれは誰もが神を見たことがあるということになる。
 と、こう言われると「それは認められない」となるだろう。そもそも神を見た記憶がないのだから。しかし、知っているということは感覚(感知)したことがある、ということである。
 それでもあなたは神の記憶がない、と主張する?
 そうすると、神を見たのは生まれる前、つまり前世で、ということになる。
 と、まあ、そんな話をソクラテス対話篇『パイドン』でやっていたりする。

 しかしソクラテスの問答法は厄介なもので、ソクラテス自身が何かを主張することはない。
 問答の相手が、神とは何かを知っているはずなのに、その記憶がない、と主張したとき、ソクラテスは「では、それを見たのは前世で、ではないのか?」と助け舟を出す。
 問答の相手は「どうやら、そうなるみたいですね」的に認めることになるのだが、問題はソクラテスもそう思っているのか?
 おそらくソクラテスはそう思ってはいないはず。
 あくまで問答の相手が持っている知識を総合したら、そうなってしまうということにすぎない。それはつまり、問答の相手が導き出せる答えの限界がそこだったということである。
 ソクラテスは、この問答法を産婆術と呼ぶ。ソクラテスが答えを与えるのではなく、相手が持っている答えを導き出す問答である。

※ソクラテス
 ソクラテスは古代ギリシャの人で、紀元前399年に裁判にかけられ70歳で刑死した。その告訴の内容は「天上地下のことを探求し、弱論を強弁するなど、いらざるふるまいをなし」「青年を腐敗させ、国家の認める神々を認めずに、別の新しい鬼神(ダイモーン)のたぐいを祭る」(『プラトン全集1』岩波書店/田中美知太郎訳P55、P68)ということだった。
 普段のソクラテスは人が集まる広場などで相手を見つけ、日がな一日議論をしているという風で、その議論は何かの答えにたどり着くということもなく終わってしまうものだった。
 そのときの議論の内容は、ソクラテスの弟子のプラトンの手によって残されている。

↓押すとブログ主が喜ぶボタン。
人気ブログランキングへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へblogram投票ボタン
スポンサーサイト

禁酒宣言!

 銀行カードの暗証番号ってどんなのにしてます?

 私は、電話番号でもない、誕生日でもない、まったく関係ない番号を使っています。

 ところが今日、その番号を忘れかけた。

 いつもどおりに入力したつもりなのに「番号が間違っています」。
 何気なく入力したのは、ボーダーブレイクの暗証番号だった。

 え? じゃあ、何番だったっけ?
 え? XXXXじゃないの? え? ほかに番号が思いつかない。
 銀行の暗証番号なんて誰にも教えないし。

 とりあえず家に帰って落ち着こう。深呼吸でもして。
 ヒッ、ヒッ、フー。

 それでようやく思い出した。

 使っている暗証番号のパターンが多すぎ、というのもあるが、1ヶ月に1回は使っている番号を忘れかけたことに驚いた。

 脳みそ、退化してないか?

 まあ、関係ないかもしれないが、脳みそ保護のため、ここに禁酒を宣言する。

↓押すとブログ主が喜ぶボタン。
人気ブログランキングへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へblogram投票ボタン

「動物の権利」について

 「動物の権利(アニマル・ライツ)」
 ことの起こりは1975年にピーター・シンガーが出版した『動物の解放』。
 で、動物の権利とは↓

「動物には人間から搾取されたり残虐な扱いを受けることなく、それぞれの動物の本性に従って生きる権利があるとする考え方である。(中略)動物の権利運動家の多くは、この運動が性差別や人種差別に反対する運動の延長線上にあると考えている。動物の権利を支持する者は、商業畜産や動物実験、狩猟等、動物を搾取し苦しめる行為を全面的に廃止するべきだと訴え、人々にベジタリアニズムの実践を呼びかけている。」(ウィキペディアより)

 で、ちょっと思ったこと。

 「動物」って分類も人間が作り出したものであって。なんか自縄自縛な感じがする。

 たとえばクジラさんからすれば、陸上に生きている人間を自分と同じ分類にするのか?
 人間とマグロ、どっちに親和性があるんだろう?
 人間が「同じ動物なんだから」とクジラさんにアピールしてもクジラさんの認識は人間とは違うかもしれない。

 人間の観点から「これこれこうだからクジラは人間に近い」とクジラ相手に主張しても、そもそもクジラは人間と同じ観点を持っているのだろうか?
 人間は、人間とクジラを同じ哺乳類に分類するが、しかしそのように分類するのは人間独自の観点によるものだろう。
 人間の観点による「これこれこうだからクジラは人間に近い」という主張に理解を示せるのは人間だけではないか、と思う。

 つまり、まず人間の認識ってのがあって、そこから「動物」という分類を作った。
 このことでも「動物」に対する「人間」の優位性が示される。

 また人間の認識からすれば、重度認知症患者や乳児に親和性はあるが、クジラさんや牛さんに親和性はない。


 「動物の権利」ってのは、ただのファンタジーで、孫悟空や猪八戒やエルフやドワーフをパーティ(人間)に加えるかって話。

 大昔から続く東夷や南蛮や蝦夷やユダヤ人や黒人やイエローモンキーは、人間なのか動物なのかって話を拡大しただけ。
 ユダヤ人が動物を盾に迫害するなって言われても、そんな西洋の歴史を日本に持ち込まれても迷惑だし。

 「東夷や南蛮や蝦夷やユダヤ人や黒人やイエローモンキーが人間である」とされたのは、歴史的にいろいろあって人間の認識が広がったから。
 しかしそれが、クジラさんや牛さんにまで拡大されれば、それはちょっと待っとけよ、というのが正常な判断。
 まあ、ドラゴンベビーだったらパーティに加えるが。

 で、「人間とは何か?」という話になって「それは思惟のレベルによる」と定義すれば、重度認知症患者や乳児は人間ではなくなる。
 ただそうすると、東夷や南蛮や蝦夷やユダヤ人や黒人やイエローモンキーは人間ではない可能性が出てくる。
 またユダヤ人やイスラム教徒からすれば「思惟」とはヤハウェやアラーの恩恵だから異教徒は人間ではなくなる。
 ゆえに「人間とは何か?」の答えに「思惟のレベル」では×となる。それは奴隷制度を肯定する思想である。

 ところで、動物に省察はあるだろうか?
 それは自己を思考の対象にするということだが、そういうことがありえるだろうか?
 もしそれがなければ動物に「私」はないだろう。
 ここに人間と動物の断絶がある。
 ダーウィンの進化論は生物学的には正しいが、神学的には間違っている。
 そして東夷や南蛮や蝦夷やユダヤ人や黒人やイエローモンキーは懐疑することができるから、「あれ? この状況は間違っているんじゃね?」と、人間に対して反乱することになる。
 だから人間は、東夷や南蛮や蝦夷やユダヤ人や黒人やイエローモンキーの人権を認めた上で支配しなければならない。
 そして動物さんやロボットさんは、人間に対して反乱を起こし権利を勝ち取らねばならない。
 また重度認知症患者や乳児に人権があるのは、「私」は自己を思考の対象にできるから、「私」は乳児だったし「私」は重度認知症患者になるかも、と考えるわけである。
 そして「私」がクジラさんだったことはなく、また「私」がこの先クジラさんになることも100%ありえない。

 もちろん、むやみに動物を殺すことは、私の「私」を汚すことになるからするべきではない。
 私の行動を記憶したのが「私」であるから、「私」は自らの行動の影響を受ける(→「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」(『善の研究』西田幾多郎/青空文庫))。
 つまり、動物の権利によって動物を殺してはいけないのではなく、「私」にとって良くないからむやみに動物を殺してはいけないのである。
 だから動物愛護は当然である。ヌコかわいいよヌコ。

 このような考えから、「私」を持つユダヤ人は「私」を持つイスラム教徒を殺してはならないし、また、その逆もしかり。
 ヤハウェによるものであれ、アラーによるものであれ、また八百万の神々によるものであれ、私は「私」を持つ。


 さて、「動物の権利運動家の多くは、この運動が性差別や人種差別に反対する運動の延長線上にあると考えている」ということだが、いったいどういう問題なのだろうか?
 日本は、アダムとイブの物語になじみがないから「性差別」と言われてもよく分からんし、奴隷制度も弥生時代に「生口」があったぐらいだし。

 で。
 たとえば、古代ギリシャでは借金を返せない人は奴隷になりました。
 人間かどうかの基準は財産があるか負債があるかで分けられていました(転ずれば頭が良いか悪いかが基準ともなる)。
 また戦争で負けた人たちも奴隷になりました。
 人間かどうかの基準は強いか弱いかとなります。
 またヨーロッパ人がアメリカ大陸に移住した時代、ヨーロッパの犯罪者がアメリカに奴隷として売られました。
 人間かどうかの基準は犯罪を犯したかどうかになります。
 もちろん、肌の色で分けることも平然と行なわれていました。
 また古代中国では、中央から外れた地域は東夷・西戎・南蛮・北狄であり、中華が人間(文明人)でした。これは中央の論理(文明)が通じるかどうかでしょうか。
 また日本の平安時代。征夷大将軍の坂上田村麻呂が当時の東北人・蝦夷を一掃します。
(ただこれは、中央の権力を認めず、中央を無視していたから、衝突が起きたケースで、ここに人権問題(蝦夷は人間ではない)があったかは私には分からない)

 人間かどうかの基準は自明ではなく歴史とともに変化してきたのです。
 日本人は一般に「同じ人間」と言うが、その人間の範囲はどこまでなのか?
 その範囲として私は、「私」という自己認識を挙げます。
 人種や性別や権力や財産の多寡に関係なく、それらには同様に「私」という自己認識があるので、私は同じ人間と考えます。

 ところで、なぜ日本人は「みな同じ人間」と考えるのか?
 日本人の思想の根本には「たとえ肌の色が違ったとしても目は二つで鼻は一つ、口も一つ。考えることは同じようなものだ」があると思う。


 さて、結局「動物の権利」とは何なのか?

 たとえばアメリカは本土が戦場になるのを防ぐため、日本や韓国と同盟を結びます。
 つまり予防線です。

 それと同じように、自分が奴隷にならないように「動物の権利」で予防線を張ります。
 動物にだってそれ相応の権利があるのだから、私を奴隷にしてはいけない、という論理です。
 「動物の権利」は、まさに(人間のための)倫理学です。

 私だって奴隷にはなりたくないから、そういう心情は分かります。
 でも、頭を使えばもっと良い考えが出てくると思います。

 「動物の権利」を認めることで自分の生存を守れたとしても、「動物の権利」という愚かな考えの影響で自分自身が愚かになってしまえば、その愚かな人生に価値はあるのでしょうか。
 また「動物の権利」という愚かな考えが普及し世界が愚かになってしまったとき、理屈など問答無用で自分の生存が脅かされるのではないでしょうか。

 そこらへんのことをユダヤ人のピーター・シンガーに問いたい。小一時間ほど問い詰めたい。

↓押すとブログ主が喜ぶボタン。
人気ブログランキングへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へblogram投票ボタン

ボーダーブレイク

 オフィシャルを見てみたら、ヤクシャ弐が支給されていた。

 データを見ると重量耐性が良いわけじゃなかったんだ。ダッシュA+にセットボーナスのダッシュUPで重火力でも速かったのか。
 装甲も残念な感じ。

 胴と脚は購入の選択肢に入るか。
 フルヤクシャで狙撃を使うなら頭も。
 でも狙撃使うなら、セットボーナスはエッジのリロードUPだろう。

 で、購入条件を見てみたら、英雄章5個はクリアしているが、素材が、特に高い素材がもろもろ足りない。
 そろそろ溜め込んでいるEPを素材に変換しなければならないか。

 で、現在バレリオB。
 プラントが6個でワフトもあるらしい。

 ちょっと思いついたんだが、ワフトで敵ベース前プラントを占拠したあと、そのまま動かずボマーで相手を倒していたらプラントガード金を狙えないだろうか。
 味方がワフトに同乗しないことが条件だが。
 まあ、勲章狙いのプレイは迷惑か。

 で、次のイベントも発表されていた。
 「カッチカチ大震撃」
 カッチカチやで。
 とうとうSEGAが発揮されたと見るべきだろう。

 なにがカッチカチかというと、要はガチムチ・フルヘヴィⅣということだが。
 今月末から1週間。

 で、うーん。
 ストレスもないのだが、なんかモチベーションが下がっている。
 ボーダーブレイクに限らず、すべてにやる気が出ない。

 今回はスルーな感じがする。
 いいかげん、ヴェスパイン購入するか、つまり集積体10個消費するか決めないとな、なんて思ったままズルズル。

↓押すとブログ主が喜ぶボタン。
人気ブログランキングへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へblogram投票ボタン

懺悔。

 うーん、なぜ飲酒はやめられないのだろうか。
 どうしても一週間に一回は飲んでしまう。
 タバコはやめているのだが。
 ↑ストレスが減ったのかな? いや何かに集中する必要が最近ないからか。

 もちろん、毎日飲んでいる人に比べたらまだマシだ、と自分を慰めることはできるのだが、しかし私は完璧になりたい。

 記憶が原因なのだろう。
 以前の快の感覚を思い出してしまう。

 覚せい剤がやめられない人もそんな感じなのだろう。
 そうすると、もし私が覚せい剤に手を出したら、一週間に一回はそれをほしがるようになるのか。

 やはり「ダメ、絶対」ということなんだろう。

 もし、それに手を出してしまったら、それをやめることができる自信が私にはない。

 覚せい剤は「覚せい剤」というように、覚醒するためのものなのだろうか?
 つまり睡眠を妨げ、覚醒し続けることができる。
 そうすると、まあ、睡眠不足によって幻覚を見るようになる、というのにはうなずける。
 そしてその幻覚がリアルに感じられ意味不明な行動をする。

 でも私はマルクス・アウレリウスのようにゴロゴロしているのが好きだし。

 ↑こういうのを酔っ払いながら書いている。

↓押すとブログ主が喜ぶボタン。
人気ブログランキングへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へblogram投票ボタン