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松本人志の問題発言

 川崎の殺傷事件があって。
 精神的にきついんで、私はテレビを見なくなります。
 で、日曜日の『ワイドナショー』で松本人志が問題発言したらしいですね。

 ↓『女性自身』東ちづる「人間に良品も不良品もない」松本人志の発言に異論(2019/06/03)
6月2日放送の『ワイドナショー』(フジテレビ系)で、川崎市の20人殺傷事件が取り上げられた。その際の松本人志(55)の発言が物議を醸している。
番組では、自殺した容疑者に対する「死にたいなら1人で死ぬべき」という意見の是非が取り上げられ、松本は以下のように持論を展開した。
「僕は、人間が生まれてくる中でどうしても不良品って何万個に1個、絶対これはしょうがないと思うんですよね」
「それを何十万個、何百万個に1つぐらいに減らすことは、できるのかなあって、みんなの努力で。正直、こういう人たちはいますから絶対数。もうその人たち同士でやりあってほしいですけどね」

一連の発言に対しTwitter上では《産まれながらに不良品なんて人はいない》《優生思想そのもの》と批判が殺到。また、著名人や有識者からも異論が相次いでいる。

女優の東ちづる(58)は《私たちは人間。「良品」も「不良品」もない。「フツウ」も「一般的」も、個人の偏見。言うなら、「多くの場合」。そして、多いからといって、「正しい」とも「正義」とも限らない。これまで間違って判断してきたこともある》とツイート。
(中略)
また、『Yahoo!ニュース』への寄稿(5月28日配信)で「『死にたいなら一人で死ぬべき』という言葉は控えて」と主張していたNPO法人ほっとプラス代表理事・藤田孝典氏(37)も松本の発言を厳しく批判。《これに至ってはもはや危険思想。生まれながらに不良品である人間などいない。不良と見なされるなら、それは社会環境からの産物としかいえない》とツイートした。


 むしろ人はすべて不良品として生まれてくるんじゃないの?
 だって赤ちゃんは無知で何一つ分からず、理性はなく、感情のままに行動する。

 赤ちゃんはかわいい。
 なぜ人は「かわいい」と思うのか?
 それは弱いから。
 熊やライオンの赤ちゃんも弱いからかわいい。
 赤ちゃんの力が強くなったら、それでも「かわいい」と言ってられるのか?

 赤ちゃんの精神のまま大人になったら、何かを堪えるということはなく、殺したいから殺すし、死にたいから死ぬというサイコパスになる。
 (一般的なサイコパスの定義とは違うと思うが、理性がないのをサイコパスとする)
 赤ちゃんの精神のまま大人になったら迷惑でしかない、という意味で、「人はすべて不良品として生まれてくる」。

 もちろん多くの人はサイコパスではない。
 それは、親や他者の関わりによって「不良品」であった者が「良品」に変わるからだと思う。
 他者の関わりがなく、赤ちゃんから素通りで大人になった者は「不良品」のまま。
 このケースは絶対どこかで発生する。

 「どうしても不良品って何万個に1個、絶対これはしょうがないと思う」
 「それを何十万個、何百万個に1つぐらいに減らすことは、できるのかなあって、みんなの努力で」

 理性がない人は社会の迷惑。
 しかし、人は誰でも、赤ちゃんのときは理性がなかった。
 人との関わりによって、理性を得る。

 犯罪を犯したことのない自分は生まれついての善人だったと思うのではなく。
 親や自分に関わった他者や神に感謝するべき。

 藤田孝典はまったく逆の考え。
 「生まれながらに不良品である人間などいない。不良と見なされるなら、それは社会環境からの産物としかいえない」
 人はすべて善人として生まれてくるが、社会環境によって悪人になる、と言っている。
 であるのならば、人は他者と接触するべきではない。
 他者と関わらなければ、善人のままでいられる。
 もちろん、藤田孝典の考えは間違っている。

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唯一神だと思っているそれはヤハウェなのか?



 こういうのって多神教的な神概念だと思うんだけど。
 古代ギリシャや古代ローマのゼウス(ユピテル)信仰とは違うの?

 ゼウス信仰だから歌とか絵画とか、偶像崇拝することができる。
 ”ヤハウェ”は偶像崇拝できない。
 「偶像崇拝してはいけない」というより、できない。
 偶像にできるものは”ヤハウェ”ではない。

 ジョーン・オズボーンは、よく異端審問にかけられなかったな。
 キリスト教徒のうち、”God”をジョーン・オズボーンのように考えている人はどのぐらいいるんだろう?

 いや、”ヤハウェ”と”神”は異なる概念だから、多神教だった古代ユダヤように”ヤハウェ”と”神”は併存してもいいと思うけど。
 ”ヤハウェ”を考えたモーセがそうだから、古代ユダヤは多神教だったんだろうし。

 でも、紀元前597年にバビロン捕囚があって、「多神教だからこんなことになった」ということで、一神教になったらしい。
 仏教は上座部から大乗へと大衆化したが、ユダヤ教はバビロン捕囚という環境で先鋭化したのだろう。

 で、イエスはその約600年後の人だから、イエスの頃にはユダヤ教はバリバリの一神教。
 イエスのナザレ派は、ユダヤ教に「赦し」という要素を加えた。

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唯一神

 ↓『ネタりか』ローマ教皇、メッシを神と呼ぶのは「冒涜」(2019/4/13)
ローマ教皇が、サッカーのリオネル・メッシ選手を“神”と呼ぶのを止めるよう訴えた。
教皇は、それが神への冒涜であり、自身はメッシを“神”とは考えないとして、サポーターたちにその言葉を使わないように呼びかけている。
スペインのテレビで、メッシが”神”とあがめられていることについて尋ねられた教皇は、「理論的に言えば、それは冒涜です。言うべきことではありません。私はそう考えていません」と答えた。
教皇は称賛の意味で“神”という言葉が良く使われてはいるものの、メッシは“神”でないと強調し、「人々は敬愛の意味を込めて彼を“神”と読んでいますが、唯一の神だけが崇拝されるべきなのです」「『彼はピッチでボールを持つと“神”だ』と言うのは、自分の考えを表現するのによく使われています。彼のプレーは見る人を楽しませてくれますが、“神”ではないのです」と続けた。


 古今東西、普通の人と比べられないくらい優れている者は”神”と呼ばれる。

 ただし、”神”と”ヤハウェ”は違う。
 ”神”という概念は自然に獲得するものだが、”ヤハウェ”はある種の気づき・発見が必要となる。

 ”ヤハウェ”は、いつ、誰が発見したのだろうと思って。
 モーセがシナイ山に登ったのが起源なんだろうか?

 「1+1=」という問題があったとして。
 「3」だとか「7」だとか、私たちは自分の好きな数字を言い合うだけだが。
 で、たまたま「2」と答えが偶然合う人がいて、その人は天才と称される。
 イエスは、計算して「2」と答えられる人。計算の仕方を使徒たちに教えた人。
 モーセは、数字の「0」を発見した人。
 と考えると、モーセはスゴイ。

 モーセの”ヤハウェ”を、イエスの時代のローマ人に布教するときに。
 ローマ人には”ヤハウェ”という概念がないから、ローマ人も理解できる”神”として教えたのだろう。
 ローマ人は、「神々の中で最強なのが”ヤハウェ”。それ以外は神ではなく、信仰してはならない」と、多神教的に理解したのではないのか?

 「メッシは”神”と称されるほど優れているが、”ヤハウェ”ではない」
 と答えるのが正解じゃないか?

 ただし。
 ”ヤハウェ”を信じているがゆえに、優れた人物”神”になる。
 しかしメッシは”ヤハウェ”を信じていることによって、サッカーで優れたプレーができるわけではない。
 たまたま「2」と答えた天才。
 そういう意味では”神”と称賛するべきではない。

 キリスト教徒って「唯一神」が何か、分かっているんだろうか?
 多神教的に「唯一神」を考えているわけではないよね?
 「イエスの神を信じている」というのは、多神教的ですよ。
 信じるのは”ヤハウェ”です。

 ”神”の亜流が”ヤハウェ”ではなく。
 ”神”と”ヤハウェ”は違う概念。

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歴史学

 『アゴラ』で行われていた八幡和郎と呉座勇一の歴史学論争が、編集部の仲裁によって終わってしまった。
 あーあ。楽しみにしていたのに。
 もっとDQNと炎上を!!

 文献に書かれていないことを推定する推論能力が、文献学者は優れているのか?
 文献学を学べば、推論能力も向上するのか?
 興味があったのに。

 カントが言うには、理性とは推論能力。
 そして人間と動物を分けるのは、理性。
 しかし残念ながら、人類はどうやったら理性を獲得できるのか分かっていない。
 それがあるからこそ人間なのに、それを得る方法が分からない。

 警察が犯人を推定するのにも必要な推論能力。
 それが文献学で得られるとすれば、警察も文献学を学ぶべきで。
 本当にそうなら、理性を得るために義務教育で文献学を学ぶべきなのに。

 私には「文献学を学べば推論能力も向上する」というのが信じられなくて。
 文献学にそんな効果はないと思う。 

 で、「文献学と推論能力は関係ない」のであれば、文献学を学んだ者が歴史を推定することに根拠はない。
 文献学者が学んだのは文献学である以上、文献学を逸脱するべきではない。

 岩井秀一郎という人は、
 「古文書を読み解くのは文献史家に任せ、読めるようになったら『森羅万象』について詳しい俺が解釈してやる」とでも言う気か」
 と言っているが、それでいいんじゃないの?

 呉座勇一も、
 「八幡氏の人生経験は八幡氏だけのものであり、他の人は継承できないからだ。仮に八幡氏の深い人生経験に基づく歴史解釈が正しかったとして、八幡氏が亡くなった後、私たちはどうやって歴史研究を進めれば良いのか。次の「天才」が現れることをお祈りでもするのだろうか」
 と言っているが、それでいいんじゃないの?
 誰も困らないよね?

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神のものは神へ

 『アゴラ』というサイトがあって。
 「オピニオンサイト」と言うんですかね?
 そこの記事に「フランスの混乱とそれでもマクロン政権安定の背景」というのがあって。
 その記事を書いたのは、八幡和郎。評論家、歴史作家、徳島文理大学教授。
 通商産業省に入省して、国費でフランスに留学していたらしい。
 だからフランスについては一家言あるみたい。
 で、記事の内容としては、「フランスでのデモはよくあることだから、マクロン政権への致命傷にはならない」と言っていると思う。

 まぁ、それはどうでもいいのだが、記事の中に、
「フランスでは統治機構が強固だからそれとバランス取る形で、市民の直接行動がひとつのバランサーとして位置づけられている」ということの根源は、カトリックにもある。「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」というのがキリスト教らしい政治思想だ。政府は勝手に権力を振るえる。しかし、国民も勝手にするということだ。
そうしたなかで、選挙の年でないと、政府は簡単に法律を通せるが、反対する人々は街頭に出て、そこで、市民の支持をそれなりに得て成功すると、政府も考慮せざるを得ないというのが、王制時代からのひとつの伝統なのだ。


 とあって。
 「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」を、「政府は勝手に権力を振るえる。しかし、国民も勝手にするということだ」と理解しているらしい。

 そんなわけないじゃん。
 イエスは「税金を払うことの是非」を問われ、そのように答えた。
 「カエサル」とは、お金や物理的なものを意味している。
 「神」とは、精神的なものを意味している。
 イエスはお金などに執着するのではなく、精神的なもので満たされることの幸福を説いたのだと思う。

 しかし、空腹(お金)が満たされることが幸福だと思っている人は結構いるのだろう。
 その「ハラペコちゃん」たちが、フランス国王をギロチンにかけたのがフランス革命。

 現在も、フランスを支配しているのが「ハラペコちゃん」たちだから、国民から富を搾り取ろうとする。
 しかし国民も「ハラペコちゃん」だから、フランス革命のように暴動を起こす。
 「ハラペコちゃん」たちが「カエサルのもの」を奪おうとする。

 その暴動を見ると、統治機構としてはキリスト教国のほうがよかったんじゃないの?と思うんだけど。
 それに対して日本は「お上」がなにをやってもそれほど気にせず、「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」を実践していると思う。

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