思考実験/臓器くじ

 ↓『頭の中は最強の実験室』P19 「臓器くじ」
 ある社会では次のような制度がある。社会全体の健全な肉体をもつ者のなかからくじ引きで1人に死んでもらい、その臓器を切り取って、別々の致命的な病気をもった5人に移植して5人の命を助けるというものである。あなたは、この制度についてどう思うか?

 消極的殺人で5人を見殺しにするのか、積極的殺人で1人を殺して5人を救うのか、という問題。

 臓器移植が必要な人を死なせることを消極的殺人とするのが、この問題の詭弁。
 病気の5人を見殺しにするのは殺人ではない。
 健康な肉体を持つ者から臓器を取る殺人は許されない。

 しかし、これが「羊飼い」の話なら。
 1匹の健康な羊から臓器を取って、5匹の羊を生かすほうが利益が多いだろう。

 功利主義は羊飼いの話では通用するが、それを人間社会に持ち込まれても困る。

 ただし、これがもしも戦争中の軍隊だったら。
 A国は1人を生かすために5人を見殺しにする。
 B国は5人を生かすために、1人を殺す。
 A国の兵士は1人。B国の兵士は5人。
 A国で生かされた1人の兵士も、B国の兵士5人に殺され、戦争はB国が勝利する。
 軍隊においては、功利主義で考えたほうがいいだろう。

 また、戦争中の一般社会においても。
 総力戦で、どれだけ多くの物資を作れるかという状況なら、人的資源を多く確保したほうが勝利する。

 だから、戦争が身近にある世界であれば、功利主義が採用されるだろう。
 しかしそれは、国を存続させるものではあっても、人間社会においては不適応であるから、批判を受けることになる。

 ↓『頭の中は最強の実験室』P21 「野戦病院での薬の配分」
 ここに1人の患者Aと、A以外の5人の患者がいる。全員激痛に苦しんでいる。患者Aは将官で、Aのもとには後方基地より鎮痛剤が送られてきた。その鎮痛剤をAに投与すれば1日中彼は苦しまないですむ。しかし、同室の5人の患者は、患者Aとは体質が異なり、1/5の量で1日中苦しまないですむ。
 あなたは医師である。Aの薬を取り上げて、5人の患者に投与するか、本部の命令を順守するか、どちらだろうか?


 軍医であるなら羊の一匹にすぎないのだから、羊飼いである本部の命令を順守するべきである。
 しかし、自分がたまたま通りかかったフリーな医者で、たまたま鎮痛剤を持っていたという設定なら、5人に投与する。より多くを救えるほうに使うだろう。

 まとめ。
 功利主義は羊飼い(人間飼い)の理屈。
 人間社会で功利主義はナンセンス。
 しかし、戦争中であれば、社会は功利主義的になるだろう。倫理よりも功利が優先される。
 功利主義が生まれた、ベンサムが生きた時代がそうだったのだろう。

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思考実験/トロッコ問題

 アルコールでニブった頭のリハビリで、思考実験でもしてみよう。
 昔、『頭の中は最強の実験室』(榛葉豊・化学同人)という本を買ったけど、ぜんぜん読んでいなくて。
 だって最初が、船が難破して救命ボートで脱出。でも食料がなくなって衰弱した人を殺して食べた、という「ミニョネット号事件」の話。
 いきなり読む気が失せて、それっきり。

 まぁ、それは飛ばして、本題の「トロッコ問題」。
 ハーバード大のマイケル・サンデルによって有名になった問題。

 ↓ウィキペディア「トロッコ問題」
まず前提として、以下のようなトラブル (a) が発生したものとする。
(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。

そしてA氏が以下の状況に置かれているものとする。
(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?

なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。また法的な責任は問われず、道徳的な見解だけが問題にされている。あなたは道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。
つまり単純に「5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか」という問題である。功利主義に基づくなら一人を犠牲にして五人を助けるべきである。しかし義務論に従えば、誰かを他の目的のために利用すべきではなく、何もするべきではない。


 ウィキペディアでは、自分は全く関係がない人という設定だが、『頭の中は最強の実験室』では、自分はポイントの切り替え係となっている。自分はこの事故の関係者。
 マイケル・サンデルの『白熱教室』では、トロッコではなく路面電車の運転手という設定で、『頭の中は最強の実験室』と同じような設定。

 『白熱教室』の設定で、自分の運転で線路を選ばなければならない場合、これは1人のほうを犠牲にします。
 どちらかを選択する義務があるのであれば(自分の罪が避けられないのであれば)、より軽い罪のほうを選択します。

 このトロッコ問題にはバリエーションがあって。
 ↓ウィキペディア「トロッコ問題」
では次のような派生問題ではどうだろうか。A氏はやはり(a)の状態にあるが、(1)ではなく次の(2)の状況に置かれている。
(2) A氏は線路の上にある橋に立っており、A氏の横にC氏がいる。C氏はかなり体重があり、もし彼を線路上につき落として障害物にすればトロッコは確実に止まり5人は助かる。だがそうするとC氏がトロッコに轢かれて死ぬのも確実である。C氏は状況に気づいておらず自らは何も行動しないが、A氏に対し警戒もしていないので突き落とすのに失敗するおそれは無い。C氏をつき落とすべきか?

前述の問題と同様、A氏にはつき落とすかつき落とさないかの選択肢以外は無いものとする。C氏ほど体重の無いA氏が自ら飛び降りてもトロッコを止められず、またその事実をA氏は理解している。


 C氏を突き落したら、私が1人を殺したことになる。殺人事件。
 C氏を突き落さない場合、5人が死ぬことになる事故だけど、その責任は鉄道会社になる。
 私はC氏を突き落したりしない。
 社会や法が、私に殺人者になることを要求することはないだろう。

 ↓『頭の中は最強の実験室』P16
 「人間の快楽や幸福は計量化でき、他人の快楽や幸福と比較・換算ができる。そして社会全体の幸福の総和を最大化するような選択をすべきだ」と考えるのが、イギリスの法哲学者ジェレミ・ベンサム(1748~1832)に始まる功利主義です。「最大多数の最大幸福」をめざします。

 どちらの問題でも、常に1人を犠牲にして5人を生かすのが功利主義というものらしい。

 多くの人は、最初の問題では1人を犠牲にするが、次の問題ではそうはしない。5人を見殺しにする。
 功利主義に反した判断をするのが不思議だね、というのがトロッコ問題。
 「不思議だね」と言うよりも、功利主義は現実的ではない、と言うべきだろう。

 最初の問題は、自分が1人を殺すか、5人を殺すか、という問題で、多くの人が1人と答えるのは納得できる。罪が軽いほうを選択する。
 次の問題は、殺人を行うかどうかの問題で、多くの人が殺人をしないと選択するのも当然だろう。これも罪が軽いほう、と言うか、罪にならないほうを選択した。

 ウィキペディアのように、最初の問題も自分に無関係な事故であるなら、多くの人は殺人をしない、という選択をするだろう。
 しかし、それだと最初の問題と次の問題に違いはないので(殺害方法だけの違い)、ウィキペディアの記述が間違っているのではないかと思う。

 さて、功利主義とは、どのような発想なんだろうか?
 たとえば自分が羊飼いだったとして。
 線路に羊が逃げ出してしまった。
 ポイントを切り替えて1匹を犠牲にするか、5匹を犠牲にするか?という問題だったら、当然、1匹を犠牲にするだろう。
 5匹の羊を救うために、1匹の羊を突き落すのにもためらいはない。
 こういうケースなら功利主義で考えられるだろう。

 しかしこれが人間であった場合。
 私は「人間飼い」ではないので、そのような選択はしない。

 ベンサムは、「人間飼い」として、上から目線で考えていたのではないかと思う。

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マルクス

 お盆休みの6日間でマルクス関係の簡単な本を3冊しか読めなかった。

 『図解雑学マルクス経済学』松尾匡(ナツメ社)P96
たとえば、銀行が貸し付けを膨らませて経済全体で過剰な設備投資が行われたために、世の中が需要超過になって物価が上がって賃金が目減りしたしたとしましょう。

 大丈夫なんですかね?この大学教授。
 過剰な設備投資が行われれば「供給」が増えます。
 新しく工場を建てたら製品が増えるじゃん。
 なんで需要が増えると思ったんだろう?
 で、供給が過剰になったら物価が下がります。
 まぁ他の箇所での「需要と供給」は正しく使えていたから、ここでだけアホになったんだと思うが。
 この本は読む価値がなかった。

 『FOR BEGINNERSマルクス』橋爪大三郎(現代書館)P109
機械設備に投資することで、労働力に対して機械設備の比率が増えていくだろう。(中略)これに伴って、利潤率が下がってしまう。

 それは間違い。
 利潤率を増やすために機械設備に投資するわけで、利潤率が下がるなら投資するわけがないじゃん。
 「価値とは労働である」という前提だから、労働が機械にかわると価値が減る。利潤が減る、という理屈らしいけど。
 まぁ機械化で大量生産されるようになると価格を下げることができるから、製品一つ当たりの利益は減るかもしれないが、大量に販売することで利益は増える。

 『FOR BEGINNERSマルクス』橋爪大三郎(現代書館)P49
 マルクスは、労働価値説で一貫したかった。
 そこで、地代は、無視することにした。
(中略)
 では、国際貿易はどうか。
 外国をなくすわけにはいかない。外国がある限り、労働価値説は成り立たない。そこでマルクスは、外国を無視することにした。だから『資本論』は、一国モデルで、外国貿易を扱わない。外国を無視し、一国で完結する、抽象的な資本主義のモデルなのである。


 そこ、ちゃんと考えないとダメじゃん。
 こんなにガバガバなのに、これを根拠に革命を起こされても困る。
 「マルクスの経済論は幼稚」という感想しかない。
 でも『FOR BEGINNERSマルクス』は読みやすかった。

 それに比べて『はじめてのマルクス』佐藤優・鎌倉孝夫(金曜日)。
 なんだこれ?
 『はじめてのマルクス』ってタイトルにしてはいけない本。
 そういう内容ではない。

 3冊だけだがマルクス関係の本を読んで。
 経済論を期待しているのにその部分は内容が薄くて社会論になってしまう。
 そうじゃないんだよね。
 社会論には興味ないし。

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悲しみについて



 たとえば誰かが亡くなったとき、人は悲しむでしょう。
 誰かが亡くなったという事実を知覚すると、悲しみの感情が湧き上がってきて、それを表現しようとする。
 しかし、その表現・行動を一旦停止して、「悲しみ」それ自体に意識を向ける。

 また、恋人に「他に好きな人ができた」と言われたときも、悲しみが湧き上がってくる。
 このときの悲しみも、悲しみが引き起こされた事態が違うだけで、「悲しみ」それ自体は、誰かが亡くなったときのと同じもの。
 両者の「悲しみ」それ自体は同じもの。

 「還元」とは酸化鉄から鉄を取り出すことであるように、「現象学的還元」とは悲しみに付随するものを取り除き、「悲しみ」それ自体、つまり本質を取り出す手法であると思う。
 現象学的還元を用いて本質を考えることを本質直観と言うのだと思う。

 で、「悲しみ」それ自体(悲しみの本質)とは何か?
 スピノザが『エチカ』で言うように、「悲しみとは自己が小さくなること」だと思う。
 誰かを亡くした人も、恋人にフラれた人も、「自己」が小さくなったことで悲しみが引き起こされる。
 この「自己が小さくなる」というのも分かりにくいが、たとえば何かを失敗したときに「凹む」と言うように、凹んだ状態が「悲しみ」であり、凹んだものが「自己」。

 スピノザが「悲しみとは自己が小さくなること」と言う、それが「本質直観」。ソクラテスが議論していた「定義」。
 そしてスピノザは内省によって悲しみを定義したと思うが、その内省に呼び名をつけるとすれば「現象学的還元」。

 と、こうなるともうフッサールから離れて換骨奪胎になっていると思うが。

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我思う、ゆえに我あり2

 デカルトがその著作で主張していることは、精神と肉体は別である、ということ。
 それを理解するための最初の一歩が「我思う、ゆえに我あり」。
 「肉体があるから私がある」を否定するもの。

『方法序説』(岩波文庫)P8
 良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。というのも、だれも良識なら十分身に具わっていると思っているので、他のことでは何でも気難しい人たちでさえ、良識については、自分がいま持っている以上を望まないのが普通だからだ。この点でみんなが思い違いをしているとは思えない。むしろそれが立証しているのは、正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識とか理性と呼ばれているものだが、そういう能力がすべての人に生まれつき平等に備わっていることだ。


 デカルトやソクラテスは「精神と肉体は別である」と主張し、私たちは「肉体があるから精神がある」と考える。
 さて、異なる意見があるとき、ふつう、どちらかが正しく、どちらかが間違っている、と考える。
 しかし、すべての人の分別は正しいのではないのか?
 そのような視点で考えると、ソクラテスやデカルトは、自分の精神と肉体が別である状態であるから「精神と肉体は別である」と主張し、また私たちは自分の精神と肉体が分かれていないから「精神と肉体は不可分である」と思えるのではないのか。
 つまり両者は自分の状態を正しく把握している。
 その判断力や理解力、あるいは(自己)認識力といったものに誤りはない。
 ただ、両者は異なった状態であって、その自分自身に対する認識が正しいからこそ、異なった主張がなされるのである。
 デカルトやソクラテスは、まさに「精神と肉体は別である」と思える状態に至ったのだろう。
 この精神と肉体の距離感が、賢人と凡人を分けるのだと思う。

 人間という種であるなら誰でも知性はあるが、精神と肉体の距離が広いと理性的、距離が狭いと感情的なのだと思う。
 ここで言う知性とは、「AはBである」や「私はあなたではない」という判断。「真と偽を区別する能力」。哲学的には「悟性」と言うかもしれないが。
 そして精神と肉体の距離が狭いと、湧き上がった感情をそのまま表現してしまう。感情的に行動してしまう。
 距離が広いと、感情を抑えることをふつうに「理性的」と言うように、感情を抑え込み、その感情が発生した根源である「自己」を見るようになる。
 「精神と肉体の距離」と言われると、なんかアレだが、ここまでならごく普通のことだと分かるだろう。

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